忘れさせてあげる。  貴方が望むなら。  それで、本当に幸せが手に入るなら。  たとえ、身を切り刻まれる苦痛を背負うことになっても。 夢の痕 ―ユメノアト―
Written by 藤井 友
序  現在
 僕は、ただじっと見ていた。  目を逸らすなんて出来なかった。  出来る訳無いよ。  彼女が苦しんでいるんだから。  気が付いたら、僕は見知らぬ部屋に居た。部屋だと思ったのは、彼女が全裸で座り込んで いたから。  蒼銀の髪を膝に埋め、腕で足を抱え込んでいる。  でも、身動き一つしない。  体中を深い傷に覆われていると言うのに。  僕は手を出そうとして、自分の手が見えない事に気が付いた。と言うよりは、自分自身の 体すら見えていない。  漆黒。深い闇。  その中に、光を切り取ったように彼女が座っているんだ。  ほら、背中から一際大きな傷が。  血は流れ続けてる。止まらない。  助けなきゃ。  彼女を。  ……を。  ……あれ? 何で、名前を思い出せないんだろう?  僕は、彼女をよく知っている。  姿を見るだけで、小さな声を聞くだけで、切ない思いにさせられた相手。  月夜に照らされた仄かな笑顔に、心を奪われた相手。  僕を救う為に、目の前で自爆してしまった相手。  どうして、名前が出てこないんだ?  ひゅうううううううぅ……。  風だ。  風が吹いてる。  彼女を中心に、風が舞っているんだ。  部屋なのに、どうして風が?  ここは何処なんだよ? 早く彼女の手当てをしなきゃいけないんだよ!  僕は必死にもがくけど、一歩たりとも彼女に近付けなかった。  頬に伝う濡れた感触。  だから、泣くくらいなのに、どうして動けないんだ!  ごぉぉぉおっ!  うわっ!  不意に大きくなった風の音に、僕はびっくりした。  動こうにも風は壁のように僕を遮ってしまう。  頼むよ! 助けたいんだ!  ふと、真っ暗な空間に、紅い光が宿った。  薄く、辺りを覆うように。  音は大きくなる。もう、耳を塞がないと駄目なくらいだ。  でも、彼女を助けなきゃ。もう、これ以上苦しめたくないんだ。  助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ。  助けなきゃ。  助け…なきゃ。  助…けな……きゃ。  ひょおおおおおおおおおおおお!  風が、僕へ向かい、弾けた。
一  事後 1. 「駄目だ!」  自分の大声で目を覚ました。  目の前には、純白の天井があった。ゆっくりと部屋を見渡すと、そこは病室だった。以前 にも世話になった事がある部屋だった。 「……どうして、ここに?」  全く働かない頭で考える。  何故、ここに寝かされているか、僕には判らなかった。取りあえず、気を落ち着かせる為 に寝汗で貼り付いた髪をかきあげる。こんなにも寝苦しい思いをしたのは、いつ以来だろう か。  ひとつ、深呼吸。  僕は思考の中へと落ちていき、彼女の姿を探す。  何故、あんな姿の彼女を見たのだろうか?  体中を切り刻まれたかのような深い傷。  殺伐とした部屋。  ……どうしても「死」を連想してしまう。  彼女は、二度死んでいる。  過去に一度。僕の前で一度。  でも……名前を思い出せない。  そうなんだ。名前だけが……。  ぽた、と、手の甲に落ちる雫を感じた。  あれ……? 僕、何で泣いてるんだろう?  僕は暫く脱力感に囚われていた。気付いたことを知らせなかったばっかりに、看護婦さん に小言を言われたけど、何を言っているかすら僕にはどうでも良かった。  とにかく、休みたい。  頭の中が、どうにかなっているみたいで、酷く辛いんだ。 2.  寝るわけでもなく、起きるわけでもなく。  ただ、身をベッドに横たえていると、お医者さんが入ってきた。出撃でやられた時や、定 期的に検診をしてくれていたお医者さんだった。 「久しぶりだね。今はどう?」 「……少し怠いです」  別に隠す事じゃない。僕は思うままに言った。 「そうだろうね。君は一週間寝続けてたんだ。疲労と栄養失調でまだ完調じゃないから、暫 くは入院だよ」 「はい……」  お医者さんは笑顔を絶やさない。目線が合うと、少し首を傾げ、僕に微笑む。手はカルテ に何かを書き込んでいた。 「あの……、どうして僕はここに居るんですか?」  僕は思い切って聞いてみることにした。 「君は海岸に倒れていたんだ。何か覚えがあるかい?」 「……海……岸?」 「ああ、そうだ。ここに運び込まれた時は過労と栄養失調で昏睡状態だったんだけど、NER Vに戦自が攻め込んだのは知ってるかな?」 「……戦自? 攻め込んだ……?」  お医者さんの言葉がきっかけで、断片的な映像が僕の脳裏を過ぎる。  判るようで、判らない何かが。 「どうした?」 「うわぁあああああああああああ!!」  僕は叫ぶしかなかった。  もし、この瞬間に死ねるなら、どれだけ幸福だろうか。 「シンジくん! 落ち着いて! ……もしもし、304号室に鎮静剤を……」  お医者さんが何かを言っていたが、僕には聞こえなかった。ただ、ひたすらに叫んでいた。  叫ぶことで、僕は僕を保つことが出来た。  後はよく判らない。縛られて、注射をされたような感覚があるだけ。 3.  目が覚めてから数日が過ぎた。流動食を取り、三種類の錠剤を飲む。  一つは栄養剤。一つは胃薬。そして、もう一つは鎮静剤。  薄膜が張った思考で、ベッドに横になる毎日。  なんか、どうでもいいや。 4.  カーテンの開ける音。瞼の上から射す、強烈な朝日。  仕方無しに、僕は目を覚ます。どうせなら、ずっと寝させてくれればいいのに。 「おはよう、シンジくん。調子はどう?」  ミハルさんという看護婦さんが、声をかけてきた。いつも明るく、僕に話しかけてくれる。 でも、僕は受け答えすら億劫だった。  だから、微かに頷くだけで、僕は目線を逸らせる。 「もー、シンジくんったら暗いよっ。病は気からって言うんだから、空元気でも出さなきゃ ダメなんだからね」  医療に携わる人間の言うことなんだろうか。気の持ちようで何とかなるのなら、医者なん かいらないはず。 「食事、持ってきたから。今日から果物入ってるからね。固形物、久しぶりなんだからきち んと噛まないとダメよ?」  頼むからほっといてよ。 「返事は?」  ミハルさんは腕を組んで、ちょっと怒ってるようだ。  勝手にすれば良いんだ……。  ぐいっ。  いきなり、僕の頭を両手で挟んで、顔を近付けてくる。 「聞こえたでしょ? 噛まなきゃダメなのよ?」  息の掛かる距離に、笑顔があった。額に青筋があったけど。 「……はい」  半分は仕方なく、半分は剣幕に押されて、やむなく返事をした。 「うん、良い子良い子」  ぎゅ。 「ちょっ……」  僕の頭は、ミハルさんの胸に押しつけられ、埋められてしまった。時折する、ミハルさん の癖。上半身をじたばたともがかせると、ミハルさんはやっと離してくれる。 「……何てことするんですか」  顔の表面が熱い。僕は必要以上にぶっきらぼうに言う。 「嫌がらない嫌がらない」 「嫌ですよ……。苦しいですし……」 「男の子なら、泣いて喜ぶシュチュエーションだぞ? お姉さん、胸にはちょっと自信があ るんだけど」  確かに大きくて柔らかい……って、何を考えてるんだ、僕は! 「顔に出てるーっ。またやったげるからねぇ。じゃ、体温計るから」  こうして、僕の一日は始まる。 5.  次第に体調は良くなっていった。  元々病気ではない。きちんとした食事と今までの疲労をカバーする栄養、十分な休息があ れば一月で元に戻るだろう、とお医者さんが言ったのは間違いじゃなかった。  体力が戻るにつれ、思考もまともになっていったんだろう。  前よりも不快感は無くなっている。 「……あの、ミサト……葛城さんはどうなりました?」  僕は背中に聴診器を当てているお医者さんに聞いた。少なくともNERVの関係者で有るこ とは間違いないはずだから、何か知っていてもおかしくない。 「作戦課の課長さん……だったっけ? 髪の長い、結構綺麗な人」 「多分……合ってます」 「僕は本部詰めじゃなかったから、詳しいことはあまり知らないんだ。でも、本部から生還 した人が入院してるから、今度訊いておくよ」  若干の失望と安堵。死んだ、と訊かされなかっただけマシかな……。 『槙本先生、槙本先生、外科応急治療室へお越し下さい……』  館内に放送が流れた。お医者さんは、スピーカーを見上げ、軽く首を傾げていた。 「おっと、お呼びだ。じゃ、私は行くから。もう一度来るから休んでてくれないか。 それじゃ」 「あ、……はい」  落胆は隠せなかった。  人と関わりたくないと思っていたくせに。 二  彼女 1.  更に数日が過ぎた。  毎日は、何も変わらなかった。 「シンジ君、EVAのパイロットだったんだってね」  ミハルさんが食べ終えた夕食の食器を下げながら、僕に聞いてきた。  薬を飲みながら、僕は黙って頷いた。ここの病院に居るのなら、調べればすぐに判る。 「ついさっき、同じEVAのパイロットだったって人が病院に運び込まれたんだけど、シンジ 君、聞いた?」 「……え?」  ぼんやりしていた僕は、何を言っているのかとっさには判らなかった。 「何でも、女の子が一人、海辺で保護されたんですって」 「何処にいるんですかっ!」  繋がった瞬間、僕の感情は爆発した。ミハルさんの腕を掴み、揺さぶる様にして答えを急 かす。 「ちょ、ちょっと待ってよ。ICUに入ったっきり出てこないから……」  僕はベッドから飛び起きて、廊下へと転げるように出た。確か、ICUは3階。  何故、そこまでして走り出したのか、僕自身も理解出来ない。  強いて言えば、そうしなければいけないような気がしたからだ。 2.  エレベーターの前まで全力疾走して、判ったのは焦りと落ち込んでいた体力だった。既に 息が上がり、焼け付くように胸が痛い。たった数十メートルの距離なのに。  エレベーターは、一階を示している。  さっさと来いよ! 「待ってよ。いきなり走ったらダメでしょ? まだ治ってないんだから」  困惑気味のミハルさんが、僕の肩を押さえた。どうやら追ってきたみたいだ。  僕はそれが気に食わなかった。 「邪魔しないで下さい!」 「邪魔しないでって……」  今まで反応の無い僕を見続けてきたミハルさんは、僕の変わり様に驚いているようだ。  当然だと思う。自分自身、そんな反応が出るとは思わなかったんだから。  結局、ミハルさんもついてくる事で許してもらった。走るのは厳禁されたけど、どうして も気ばかりが焦ってしまう。 3.  ICUの入口で、僕は槙本先生に会った。青い手術着を来て、マスクを取っていた。 「先生! パイロットが保護されたって聞いたんですけど、誰なんですか!」  僕はしがみつく様にして聞いた。  でも、先生は答えようとしない。 「答えて下さい! でなきゃ、勝手に中へ入りますよ!」  先生から離れ、目の前にあるドアへ手を掛けた。 「おいおい、そんな事されちゃ困るよ」  先生は僕を刺激しないように、やんわりと止めた。そうじゃなかったら、入っていたとこ ろだった。 「誰なんですか」  僕は先生を睨み付けた。もう一人の自分が、どうして関係のない槙本先生に当たるんだ、 と囁くが無視する。 「……じゃ、説明を聞いてくれないか? 会うのはそれからでも遅くないと思うんだ。 どうかな?」  先生は僕の肩を掴んで、詰所に行こうと言った。  仕方なく、僕は頷いた。  聞きたい話はいくらでもあった。 4. 「……結論から言うと、彼女は生きているよ」  椅子に座り、足を組んだ先生は重々しくそう言った。あまりに単純な――僕には小馬鹿に されたと感じられた――結論は、僕の気を悪くするのに十分だった。 「言い換えれば、それくらい危うい状況なんだ」  僕の心が判ったのか、先生は慌てたように繋げた。 「……何故、教えてくれなかったんですか?」  自分でも吃驚した。こんな低く重い、恐ろしい声が出せるなんて。 「外傷だけでも、全身に数十個所。意識はない。極度の疲労から抵抗力を失っており、感染 症を併発している。私が初診したとき感じたのは、医術の限界だけだった」 「…………死んでもおかしくなかったって言うんですか」 「最善は尽くす。それに、彼女は生きているんだ。それだけは忘れないでくれ」  先生の真剣な目つきは、僕にも判った。 「……案内するよ。だが、見ても気をしっかり持つんだ、いいね?」  黙って頷く。 5.  ICUのドアを通り過ぎ、僕と先生は普段通ることの無い廊下へとやってきた。  照明は押さえられ、少し離れた場所にあるナースセンターの灯りだけがひどく目立った。 「こっちだよ」  先生は僕を促して、手摺りのある窓へと誘われる。  そこは半透明の幕に覆われた部屋だった。見たことの無い機材が所狭しと並べられ、真ん 中に小さなベッドが置かれていた。  どくん。  心音が跳ねる。  微かに見える蒼銀の髪。  だが、表情は呼吸を助ける酸素マスクに阻まれ、見ることは出来ない。  でも、僕にはそれだけで十分だった。  そこに、彼女がいる、という事実だけで。 「……あ、………あ…」  思いが言葉にならない。  ぽたり、ぽたり、と雫が床を濡らした。  泣けなかったのに。どんなに悲しくても泣けなかったのに、嬉しくて泣く。  足に力が入らなくなり、手摺りにもたれかかるけど、必死に彼女の姿を目に焼き付けた。  こんな涙なら、いつまでも流していたかった。  目が溶けて無くなっても構わなかった。  その時は、そのくらい嬉しかったんだ。  未だに、彼女が誰か判らなかったのに。 6.  その後、高ぶった感情は、現実に突き落とされた。  どのくらい時間が経ったか判らないけど、僕は少しだけ冷静になった。そう、ほんの少し だけ。  ベッドの上に寝かされている彼女が、如何に酷い状況か理解したのが原因だ。  先生の言ったことは正しい。  病院着に身を包み、細い身体を隠してはいたが、彼女は傷だらけだった。  傷の見えないところは包帯で巻かれていた。   切り傷、擦り傷は言うに及ばず、半透明のシートに包まれてぼんやりとしか見えないのに、 彼女の朽ちた身体が判った。  どうして彼女は、こんな目に遭わなければいけないんだろう。  どうして彼女に、慎ましく簡単で、幸せな時を与えてやれなかったんだ。  ……どうして自分は、彼女と過ごした日々が大切だと理解できなかったんだ!  あの時、彼女は生きていた!  今はどうだ!  否定、出来ない。  断定されていても、自分が信じたくなくても、僕はそれを否定出来なかった。 7.  訊きたくなくても、訊かなければいけない事実が、僕の落下に拍車を掛けた。 「……先生、あの娘……誰……なんですか?」  僕は、彼女の顔を見ても、名前を思い出せなかった。  頭を絞った末に判ったのは、自分が愚かで無力だってこと。 8.  僕はミハルさんに引きずられて病室へと戻った。  理由は、自分から戻ろうとしなかったのと、消灯時間だったから。 三  生活 1.  その日から、毎日が変わった。  日の出と共に起きて、窓際にもたれ掛かるのが日課となった。  食事にすら戻らなかった。検診の時、強引に連れ戻されない限り、その場に立ち尽くして いた。  理由なんか、無い。  ただ、そうしたかった。  もし目を離したら、彼女が消えてしまうんじゃないかと恐れてたのかも知れない。 2. 「……シンジくん? 身体壊したら、元も子もないでしょ?」  何度目か判らない、ミハルさんの小言だった。僕は窓から見える光景に目を留めたまま、 首を振った。  反応が無ければ、強引にでも振り向かせられるから。 「シンジくんも今が大事なのよ……。お願いだから、食事を取って安静にしなきゃ」 「…………お願いです。……邪魔しないで下さい」  目の前には硬質ガラスと半透明の幕。微かに見える白い肌が、僕にとっては重要だった。  ただ、時が過ぎた。僕にとっては時間なんかどうでも良かった。 3.  一瞬だけ、意識を彼女から離し、伸びをする。同じ体勢を取り続けていた為か、体の節々 が痛い。  すると、離れた場所にミハルさんが立っていた。  困惑と微笑みを湛えて。 「やっと見てくれた。わたしじゃシンジくんの心は奪えそうに無いわ」 「……いつから、そこにいたんですか?」 「ずっと、よ。途中何度か離れたけど、ずっといたの。シンジくんが気付いてくれるまでね。 はい、これ」  ミハルさんは、持っていたトレイを僕に差し出した。  上にはスープとサンドウィッチ、白湯と錠剤がある。 「食べなきゃダメだからね。全部食べないと、ベッドに括り付けるわよ」  ずい、と顔を僕の顔面に近付け、しかめっ面で言う。  でも、一瞬だけ。  また、笑顔に戻って、着ていたカーディガンを僕に羽織らせてくれた。 「空調、結構強いから。返すのはいつでも良いからね? あの娘、心配なんでしょ?」 「……はい、ありがとうございます」  簡単に言えた。ミハルさんの心遣いが、何故か僕の心に簡単に入ってきた。 「あら。かわいい笑顔、出来るじゃない」  ちょん、と鼻の頭を突つかれ、僕は赤面した。 4.  次の日も、僕は窓の前に向かった。  すると、一脚の椅子が置いてあった。その上には、手紙が一通置かれている。 (シンジくんへ)  その封を切った。中には、たった一枚だけの便箋。 (差し入れ。あなたのこと心配なのは、私だけじゃないわ。 ミハル)  僕は何故か少しだけ泣けてきて、素直に甘えようと思えた。 5.  ひょぉぉぉぉぉぉ。  風の音が、僕の頭に響いていた。  ……確か、窓の前で椅子に座ってたはず。 (……苦しいの)  え? 誰? (……こんなに……辛いなんて……)  ……その……声……まさか……。  僕が思い浮かべると、闇の中に全裸の彼女が浮き上がった。  全身を傷に覆われた彼女だ。前と同じように膝に顔を埋め、表情は見えない。  風は強くなる。 (……でも……そうしないと……駄目だから……)  何が駄目なんだ! (……忘れて……)  風が、僕に吹き付けた。 6.  鈍い痛みが、僕の頬に残っていた。左肩と腰も強く打ったみたいに軋んでいる。 「……あれ」  僕は床に寝転んでいた。目の前には椅子。  ……いつの間にか寝ちゃって、椅子から転げ落ちたのかな。 「シンジくん、大丈夫?」 「うわっ」  突然話しかけられ振り向くと、そこには笑顔のミハルさんがいた。 「なによ、そんなに驚くこと無いじゃない。さっきから話しかけてるのに、ちっとも答えて くれないんだもん。折角、愛しの彼女が目を覚ましたって教えて上げようって思ったのに」 「……は?」 四  記憶 1.  今まで彼女のことを彼女で通してきたが、実際は先生やミハルさんから名前を訊いていた。  何度思いだそうとしても、やはり聞き覚えのない名前だった。  彼女を知らない名前を呼びたくはない。  だから、未だに彼女で通している。 2.  でも、名前以外なら思い出せることはある。  一緒に学校から帰ったことや、不器用ながらも話に興じたこと。  それに、目を逸らしたくないくらい、僕の中で大きな存在だったこと。 「……先生、何で思い出せないんでしょうか?」 「人間ってのは意外に繊細で図太い生き物なんだ。ちょっとした事で記憶や神経がおかしく なるし、どんな過酷な状況でも生き延びられる。シンジくんも、前の経験で記憶に混乱があ るのかも知れないからね。覚えていたならいつか思い出せるから、今は気にしない方が賢明 だよ」  僕は答えになっているようでそうでない回答に、困惑した。 3.  目が覚めたとは言え、彼女の様態は思わしくない。  今まで二回だけ、瞳が動いたのを僕は確認した。 「聴覚、視覚とも正常。反応はあるから心配ないよ。峠は越えたんだ。これからは少しずつ 治っていってるんだよ」  だが、彼女の意識が戻ってから、既に二ヶ月は経っていた。  僕は、素直に信じることが出来なかった。 4.  どうしてだろう?  彼女を思う時間は多くなっているはずなのに、彼女の事が思い出せなくなっているような 気がする。  どうして、僕は彼女の側へ居るんだろうか? 5.  闇の中。  また、僕はここに来た。どうやって来るのか、どうしてこの風景を見るのかすら、僕には 判らない。  五歩くらい離れた場所に彼女。  傷に苦しみながら、膝を抱えているのは前と一緒だった。 (……いかりくん)  頭の中で、彼女の声がした。もっとも、僕は彼女の声を覚えてない。けど、何故かそう思う。 (……苦しまなくて……いいの……)  苦しんでいるのは君じゃないか。 (……だから、忘れさせて……あげる……)  ひょおおおおおお。  風が僕に向かってきた。 6. 「シンジくん、朗報だ。葛城さんの消息、判ったよ」  息をせき切らして走ってきた槙本先生は、満面の笑顔でそう言った。 「……え、誰ですか? ……そんな人、知りませんよ」  僕には聞き覚えのない名前だった。 五  困惑 1.  何故か、僕の生活に邪魔が入りだした。  簡単な計算を延々繰り返したり、図形を覚えて後で訊かれたり。  頼むよ。彼女の側から離れたくないんだ。 2. 「……記憶喪失か。いや、それなら……」  診察を終えた槙本先生は、カルテを見ながら独り言を漏らしていた。  曖昧な、しかし不自然な記憶。  入院以前の記憶だけが、日々消え去っていく……らしい。  自信がないのは、僕自身全く覚えてないから。  以前にに書き留めたはずの記憶(らしきもの)が、今日には無くなっている。  何故か、ひとつも不安に思ってない自分がいた。 3.  消灯時間が過ぎ、廊下の灯りが落ちた。  僕は渋々ながら、病室へと戻る。  廊下には、非常口の緑と火災報知器の赤しか見えない。  角を曲がり、天窓を据え付けた渡り廊下を歩く。  そこは仄かな光が射し込まれていた。  昇ったばかりの月。以前読んだ本の挿し絵にあった月と同じ形。  確か、上弦の月だったっけ。  ふと、蘇る記憶。 (……笑えばいいと思うよ)  そう言って抱き締めた彼女。  僕は、暫し時を忘れ、その場に立ちつくしていた。 4. 「知っている人の名前を書いてごらん」  槙本先生が、僕にサインペンと紙を渡してから言った。  書けたのは、二人。  槙本先生と、看護婦のミハルさん。 5. 「大丈夫だって。ほら、何かのきっかけで思い出すケースだって多いのよ」  検温に来たミハルさんが、僕を励ましてくれていた。 「……大丈夫ですよ。何の不都合もありませんから」  それが僕の本音だった。  何一つ、困ってなんかない。 6.  未だに、僕は窓越しに彼女を見つめ続けていた。  彼女のことで思い出せるのは、満月の夜に見たあの笑顔だけ。  どうしても他のことは思い出せない。  ミハルさんは、僕と彼女が一緒に帰ったとか、彼女の部屋を掃除したとかを、僕自身から 訊いているらしい。  けど、今の僕には身に覚えのない出来事だった。  あの儚い笑顔を忘れたら、僕はここに来なくなるのだろうか。 7.  おかしな自分の記憶。  おかしな自分の状態。  だけど、何も不安に思っていない、何一つおかしいと感じていない自分が、一番おかしか った。  不安はない。ほんの一欠片すらも。  だからこそ、おかしい。 8.  槙本先生が難しい顔で、ICUを出たり入ったりしている。  彼女の傷が治らないらしい。  それどころか、増えているとも言われていた。  何故なのだろうか。 六  最後 1.  闇。  また、僕は全裸の彼女と向かい合っていた。  助けなきゃ、とは思う。ただ、今までよりは落ち着いている自分がいた。 (苦しまないでも、いいの)  響く声。僕と彼女しか居ないのだから、その声は彼女の物なんだろう。 (……貴方は忘れた方が、いいの)  無くなっていく記憶は、彼女の所為なのだろうか。  不意に、風が僕へと吹き付けた。  だが、音は全く聞こえなかった。 2.  目が覚めると、ミハルさんが側にいた。  忘れている記憶は一つも無い。  と言うよりは、忘れてしまいそうな記憶が一つしかなかった。  あの笑顔しか。 3.  いつもの場所。  椅子に座り、半透明の膜越しに彼女を見つめ続ける毎日。  だが、頭の中には、ずっと彼女の笑顔だけが映し出されていた。  やっぱり、忘れたくないみたいだった。 4.  ふと、目の前が真っ暗になる。  少し離れた場所に、踞る彼女。 「……どうして、ここに連れて来るの?」  傷を労ろうとすらしない彼女に、僕は訊いた。 (……それが、貴方の願いだから)  僕は、少し呆けていた。彼女の答えなんか、一つも期待していなかったから。 「僕の、願い?」 (……そう。貴方は忘れたがっていた。全てを。……現実を)  そうなんだろうか? (……忘れれば……貴方を……壊さず済むわ) (……だから……抵抗しないで)  抵抗? (……忘れて。……その笑顔も)  風が、僕に吹き付けた。  音だけが耳に残った。 5.  目を覚ますと、陽は高く昇っていた。 「ミハルさん、朝食って遅いと出なかったんでしたっけ?」  僕はボタンを押して、ナースコールに訊いてみた。さすがにお腹は空いている。 「え? シンジくん、あそこへ行ってないの?」 「……あそこって、何処ですか?」 6.  ミハルさんは血相を変えて、僕をとある病室の前に連れてきた。 「シンジくんはこの窓の前にずっと居たのよ。私たちの事なんか全然気にしないでね」  ミハルさんは寂しそうに言った。だけど、僕には何のことかさっぱり判らない。  廊下に不似合いな椅子だけが、小さく置かれていた。 七  抵抗 1.  以前の僕はあの部屋の前に行っていた。  だが、今は行ってない。というか、行く必要が無い。  ずっと寝ている毎日。  身体は少しずつ治っていく。そのうち学校にも通えるようになると言われた。  あと少しで、元通りの生活に戻れる。  なのに、酷く辛い。  何が、というわけじゃないんだけど、正体の分からない不安に襲われていた。 「……ミハルさん、怖いんだ」 「何が怖いの?」 「僕が……僕じゃなくなっていくような気がして」  ミハルさんは何も言わなかった。ただ、ぎゅっと抱き締めてくれた。  不安は無くならなかったけど、ほんの少しだけ安心出来た。 2.  しん、と静まり返った廊下。既に消灯時間は過ぎているのだから、当たり前だった。  僕は今まで来ていたらしい病室の前に立ち、窓を覗き込んだ。  半透明の向こうに見える、僅かの髪の毛。  暫く眺めて、ふと気付いた。  彼女を見つめていると、その時だけ不安が消えることに。 3. 「大事なものが……ぽっかりと抜けたみたいなんです」 「なるほど……ね」  槙本先生に、今の心の裡を話した。  先生は何か言いたそうだったけど、何も言わなかった。 4. 「ダメじゃない。こんな夜中にうろうろしてちゃ」  巡回の看護婦さんに見つかって怒られた。  僕は争わずに、病室へと戻ることにした。  渡り廊下。月光が仄かに照らしている。  今日は満月だった。 「どうしたの?」  前を歩く看護婦さんに呼ばれ、僕は月を見るのを止めた。  だけど、どうして目を離せられなかったんだろうか?  今まで月を眺めたことなんか無かったのに。 5.  聞き覚えのある風の音。既に慣れてしまった闇。  何度目か判らないけど、僕はまだここに来ている。 (……どうして?)  彼女の声に、初めて感情が見えた。 「何が、どうして、なの?」 (……どうして……ここに?) 「僕にも判らないよ。気が付いたらいるんだ」  正直に答える。ここで嘘やごまかしはしたくなかった。 「……どうして忘れてなんて言うの?」 (……もう、来ないで。……全てを……忘れて……。……お願いだから)  今にも泣き出してしまいそうな震えが、僕の耳に入ってくる。  でも。 「嫌だ」  意識せずに、僕はそう言っていた。  ごおおおおおおおっ!  その瞬間、風が僕を包み込んでいた。  紅い光と共に。 6.  気が付くと椅子に座っていた。目の前には窓。向こうには半透明の膜。  目を凝らすと、蒼銀の髪が規則的に揺れていた。 7.  ミハルさんが僕を捜しに来た。時間は判らなかったけど、もう真夜中らしい。 「シンジくん? どうしてここに?」 「……そうだ。ちょうど今くらいの時間だったんだ」  窓から見えるのは、仄かに青い月。 「え?」 「……笑えばいいと思うよって、彼女に言ったの」  自然と頬が弛むのが判る。脳裏には淡い光に照らされた彼女の笑顔。 「初めて見たんだ……。笑った顔……」  僕は泣いていた。でも、その時は笑っていたと思う。  そう、思いたい。 八  邂逅 1.  窓辺の椅子に座り続ける毎日が戻ってきた。  ミハルさんは、優しそうに僕を見つめてこう言った。 「……彼女、幸せ者ね」 2.  眼を開けると、暗闇。  初めて僕はこの風景に安心できた。  戻って来られた、と思ったから。 「どうして、忘れさせたの?」  顔を伏せ続けている彼女に、僕は問い掛ける。 (……それが貴方の為) 「なら、どうして傷だらけなの? そんな目にあって、辛くない訳ないだろ?」 (……いいの。……私には何も無いから) 「良くないよっ」  ぎり、と歯が軋む。何処か投げやりな言い方に、僕は腹が立った。 「……自分を何もないって言うなよ!」  泣きながら叫ぶ。昔より泣き虫になったみたいだ。 (……二度目。貴方に言われるのは)  彼女の雰囲気が変わったように感じたのは、気のせいなんだろうか。  二度目と言った彼女。でも、僕には全く覚えが無い。 (貴方は……忘れた方が幸せなの。……心を傷付けられて、誰も助けてくれない。……でも、 私にとって大事な絆だったから……貴方を救おうと思った)  彼女の声は揺れていた。何かを押さえよう、閉じこめようとしているみたいに。 (……自分が傷付くのは我慢できるわ。……でも、貴方が悲しむのは……嫌) 「僕は……君のことを忘れる方が悲しいんだ」 (……でも、貴方は望んだ。忘れた方がまし、だって)  きん、と耳鳴りがした。  刺すような高音が鳴り、紅い光が僕を包み込む。 (……だから……心の壁を……貴方に同調させた。…………貴方が壊れないように、心を削 り取るために)  少しずつ遠くなる意識。紅い壁は、彼女の姿をどんどんと遠ざけていく。 (…………傷は…………私が望んだこと。…………貴方の傷は…………私が…………引き受 けるから…………何も心配しなくて…………いいの) 「どうして!」  あらんかぎりの大声。 (……………………貴方のことが…………好き…………だから)  ごおおおおおおおお!  後は、風の音しか聞こえなかった。 3.  飛び起きた。  すると、自分のベッドで寝ていた。  そっと部屋を抜け出し、彼女の病室へ行った。  確かめたかった。自分の中に、確信があったから。  窓越しに部屋を見る。  僕は呆然とした。そこの異様な風景に。  誘われるようにして、僕は部屋へと入る。  いつもなら、カーテンの閉め切られた薄暗い部屋なのに、ほんの少しだけ、紅い光が部屋 を満たしていた。  そして、緩やかな風が部屋を舞っている。  シーツは微かに衣擦れを発し、半透明の膜は音もなく踊っている。  薄手の掛け布団に包まれた彼女は、紅い光に包まれていた。  何処かで見たような、紅い壁に。 「これが……心の壁なの?」  口を突いて出た答えが、それ。  少しずつ忘れていった僕自身の思い出。  彼女との、思い出。  嫌なこと。  苦しいこと。  思い出す度に、自分を殺そうと思った。  記憶が無くなれば、どんなに幸せかと思っていた。  でも、いざ消えてみると、僕に残ったのは限りない不安だった。  逢うだけで高鳴った心音。  普通では考えられない素っ気なさの中に潜んだ、繊細な感情。  そして、女神を思わせた彼女の笑顔。  彼女の笑顔だけは忘れなかった。  忘れたくなかったんだ……。 「……笑えばいいと思うよ」  あの月の光と、彼女の笑みだけは手放さなかった。  一度忘れても、僕自身が無理矢理引き戻した。  彼女のことを大事に思ってた自分がいたから。  例え、名前すら思い出せない相手だとしても。  僕はベッドへと近付き、床に腰を下ろす。  赤い壁に触れると、ふわりと避けるようにかき消えた。通り過ぎて振り向くと、何もなか ったように戻る。  壁は僕を拒絶しなかったのだろうか。  目の前には、銀色の髪。  起きたのか、彼女の目が開いた。眼球だけで僕を見ている。動けそうもない彼女にとって は、どれだけの労力を要するか判らなかった。 「……大丈夫。……側にいるから」  笑顔で言えた。  僕は忘れたくないと願った。  彼女もそうあって欲しい。  紅い光の壁が僕たちを覆っている。  よく見れば、壁には所々傷があった。ちょうど彼女の身体と同じように。  右腕で彼女の上半身を支え、左手で壁にある傷を触ってみた。  恐る恐る。決して痛みを与えないように。  だが、壁はそこにあるだけで触れることは出来ない。  空間をすり抜けるだけで、ほんの少しだけ温かさがあるだけ。  何度か手に空を切らせると、彼女が身じろぎをした。表情は無いに等しいが、苦しんでいた。  慌てて手を引っ込めると、彼女は落ち着いたかのように、元へと戻る。  額には、小さな傷がある。  血こそ止まっていたが、傷は塞がる気配すらない。  僕は、額の傷に触れた。  治せたら、と願って。  暗転。  彼女がいきなり消える。何処までも続く落下感が酷く気持ち悪い。  目眩に耐えかねて、僕は目を閉じた。  いつもの情景。  夢と現実の境目、と呼べば良いのだろうか。  今でも、彼女は其処にいた。 「……一緒に帰ろうよ」  膝を抱えて踞っている彼女に囁く。  あれだけ藻掻いても動かなかった手足が、今は何の障害すらない。 (……何故、取り戻そうと……するの?)  声は彼女から聞こえていた。  初めて、彼女の顔を見る。  戸惑い。苦しみ。そして、限りない悲しみ。 「……君を忘れたくないから……かな」 (……駄目。貴方が壊れて……しまう) 「うん。そうかも知れないね」  僕は笑っていた。自分の心の奥に見えたのは似合わない決意。 「でも……忘れるのは逃げなんだと思う。今の僕には知らない事だけど、昔の僕はとんでも なく辛い目に遭ったのって、何となく判る」  僕は、ゆっくりと彼女を抱き締めた。  彼女の身体は、思いの外冷たかった。 「だから、逃げちゃいけないんだ。君を……大事な人を忘れたくないから」  傷付いた背中を労るように撫でた。少しでも彼女の痛みを取りたかったから。 「僕は、君を忘れたくない。もし、君が少しでも、僕に覚えておいて欲しいって思うなら…… うれしいんだけど」  全裸の彼女の抱きしめてるのに、凪ひとつとして立たない穏やかな心。ただ、純粋な愛お しさだけが僕を包んでくれる。 (……貴方を………忘れたくなんか、ない……) 「………あはは」  つんと、鼻の奥に鉄の味がした。そして、目頭に熱さを覚える。何の理由もなく。 (泣いて…………いるの? どうして……) 「ごめん……、どうしてか判らないけど……。やっぱり、嬉しいんだと……思う……」  僕は、彼女を知っている。  僕を、彼女は知っていた。  それ以外に、こんな嬉しい事なんて、無い。 (……笑ってる……の? 泣いて……いたのに……)  どうやら、自然と笑みが浮かんでいたらしい。恥ずかしくなって、彼女から離れ口元を押 さえる。と、彼女が微かに笑っているように見えた。 「……君も、笑ってるよ」  でも、僕には彼女が本当に笑っているかどうかなんて判らない。  むしろ、深紅に染め上げた瞳は、無機質なガラス細工を思わせた。  でも、違う。  何がと言うわけじゃない。  強いて言えば、雰囲気が。  だから、僕は彼女の目に釘付けになった。  少しずつ近付く。  そっと頬に添えた手。  彼女は身じろぎひとつしない。瞼すら閉じない。  動けないのだから、当たり前なんだけど。  それでも、僕は彼女の唇を奪った。
 非常召集、先行くから。
 鮮血の味と、振って湧いた彼女の声と屋上の風景。  何処かで見たようでもあるし、全然知らないとも感じたそれ。  ……もしかして。 「……さっきの、何? もしかして、あれが僕の記憶、なの?」 (……ええ) 「どうして戻してくれたの?」  勿論僕としては問題ないんだけど、いきなりだったのでかなり驚いていた。 (……貴方が私に心の壁を解放したから。……私は、貴方を閉ざす心の壁を持ってない)  戸惑い。そして、沸き上がる喜び。  かなり恥ずかしくはあったけど。  僕は何も言わない。言えなかった。  言うと、激情に身を任せてしまいそうだったから。  あらん限りの理性をかき集めて、僕は動かない彼女を抱え、横たえる。 「……もし、嫌だったり、痛かったりしたら言ってね」  彼女の左手を取る。そこにも滲み出る血が、一滴二滴と闇に消えて無くなる。  彼女とのキスで、記憶のひとつを思い出した。  なら。  触れるか触れないかのそれを、掌の傷に。
どいてくれる?
(……っ)  新しい記憶。いきなりこんなの――まさか彼女を押し倒した風景――を見せられてかなり 動揺したのか、頭に苦悶が響いた。傷口を握りしめれば、痛いはず。 「……ごめん」 (……いいわ。……でも……本当に、良いの?) 「何が?」 (……思い出しても)  答える代わりに、額の傷に唇を触れさせた。
 あなた、碇司令の子供でしょ。信じられないの? お父さんの仕事が。
 次は、首筋。仄かな甘い匂いが漂う。
 さよなら。
 肩口。鎖骨に沿って。
 人は闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきたわ。
 胸。僅かに膨らみを持ったそこへ。
 お肉、嫌いだもの。
 脇腹。決して痛みは与えないように。
 何を言うのよ。
 腰。紅い光に浮かび上がる白い肌へと。
 ありがとう。
 右膝。響く声は吐息。苦しくないのだろうか。
 いえ、知らないの。多分、私は3人目だと思うから。
 僕の唇が傷に触れる度に、僕の頭に声が響く。  紅い壁の傷がひとつ、またひとつと消えていく。  そして、背中。細すぎるとさえ思える彼女の腰を後ろから抱きしめ、唇を這わせる。
 いかりくん。
「……ありがとう。僕を戻してくれて」 終  現在  あれから数年が過ぎた。  僕はこの前、誕生日を迎えた。  背丈以外、ちっとも成長してないかも知れないけど、僕なりに色々考え抜いた時間だった。  記憶は、薄皮を剥ぐように戻っていった。  嬉しい事はあった。  それ以上に嫌なことがあった。  衝動的に死にたくなった事も一度や二度じゃない。  正確に言えば、死にたいんじゃなく、自分を殺したくなった。  今はもう大丈夫。  証拠に、僕は生きている。毎日を必死に。  そこまでに数年掛かったけど、みんなの手助けがあったから。  だから、僕の記憶は戻っている。  彼女の名前だけを、除いて。  記憶を取り戻すと共に、大事な人も思いだした。  誕生日の翌日、アスカに会った。  おめでとう、と祝福してくれた。  もう既に後遺症はなく、彼女らしさを取り戻していた。EVAはもう無いけど、次の目的を 探している最中らしい。  誇り高い彼女が戻ってきたとき、僕は泣くほど嬉しかった。  でも、それを見て「全く、泣き虫なのは変わってないわね」とぼやいて、笑ってくれた。  ミサトさんは、冬月さんとドイツへ行ってしまった。  復興の為の団体となったネルフを指導する立場にいるらしい。  目が回るくらい忙しいはずなのに、時々電話が来る。  用件なんか無い。内容は他愛の無いお喋り。  電話では、口癖のように「シンちゃんの手料理が食べたい」と泣き真似をしてくれる。  リツコさんは、父さんと結婚した。  二人とも引退して京都に住んでいる。  あんな父さんを見たのは初めてだった。耳まで真っ赤に染めて、俯いたままの父さんなんて。  これを機に一緒に暮らす話もあったんだけど、結局、僕と父さんは別々に住んでいる。  一緒に住んでもまだギクシャクすると思うし、僕も馬に蹴られるのは嫌だから。  そのうち、笑って暮らせるはず。  そうそう、リツコさんを「お母さん」って呼んだんだ。本当の母さんの思い出、僕にはな いから、それが当然だと思って。そうしたら「何か、急に老けたみたい」って、照れ笑いを 浮かべてた。  そして、彼女は……今も横で寝ている。  僕は側で話しかけたり、チェロを弾く毎日が続いていた。  目が覚めないんじゃないか、と思わない事も無い。事実、不安に押しつぶされそうになっ て泣き通した夜もある。  彼女の前で果物ナイフを握りしめたまま、どうしようもなく動けなかった事さえ。  でも、耐えられた。  彼女の身体から、少しずつ、少しずつ古傷が消えていってるから。  今は、背中の傷が少し残るだけになった。他は全て消えている。  あの暗闇が本当なら、全ての傷が癒えたとき、彼女は戻ってくる。  自分と向き合い、ひとつだけ手に入れた。  生きていれば必ず幸福は訪れる、と信じられるようになった。  例え、どんな結末でも、僕は受け入れる。  ミハルさんだけ知っている僕の秘密がある。  誰も側に居ないとき、僕は彼女をそっと後ろから抱きしめる。  すると、微かに笑うんだ。  あの、蒼月の下、僕が見たのと同じ笑みで。 「こういう時は、笑えば良いと思うよ?」  昔、僕が彼女に渡した絆。  時を経て、それは僕へと帰ってきた。  ベッドの横にある僕専用の椅子に座って、ちょっとだけ微笑む。  そうだ。笑うんだ。  必死に前を見て。  そうやって生きて行こうと、僕は決めたから。  綾波の側で。  ……綾波? 「…………いかり……くん、…………またせ……た?」
Fin.

私信 もしくは、後書き
 普通逆だろ。私。後書きを私信に使うなよ。  えー。加筆版でございます。  若干の修正が加わってますが、ほとんどそのままで。  ラストだけをちょっといじってます。1時間半くらいでしょうか。  気を付けた点は、とにかくイヤらしくならないように、ですか。  金細工大好きな人間が言うセリフじゃないですが、これだけは別格なのよ。  どうにも甘々なLRSに仕上がってますが、その辺はお約束ですので。  まあ、こんなものですが、楽しんでいただければ幸いに思います。  …………ギリギリ、内容が把握できるかな。  うん、出来ると信じよう。  訳分かんない話ですが、これもアリって事で、ひとつ。  では、次の作品でお会いいたしましょう。 藤井 拝]



お待たせしました。

藤井さんの物語は、確かな構成力と筆力に支えられた骨太なものです。
うーん、こうありたいなあ(^^;;;;;)

この物語、この形に落ち着くまでずいぶんかかりました。
それまで、ひたすら待ち続けていたのはシンジくんだけではありません(笑)
――夢乃も、楽しみにひたすら待ってたので・・・



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