僕は、目の前に立つ彼女に改めて見入った。

「…どうしたの?」

 いぶかし気な眼差しさえ、いとおしい。

『…綺麗、だなあ』

 銀の髪も、深紅の瞳も。本人は嫌がってるようだけど、僕にとって、いや、道行く人にとってもどれほど魅力的か。

 加えて、ちょっとそこらにいないほどの美人なんだから――自分の目を疑ってしまうこともよくある。あんまり現実離れした綺麗さだから。

「――碇君?」

 僕の外見が平凡であることはよく承知している。体つきもそんなにいい方じゃないし(どっちかっていうと貧弱、だな)、顔だちだって良くて10人並みだ。

「…何でもないよ。綾波にちゃんと逢うのは久しぶりだし、今日はずっと一緒にいられるんだな、って思ったら何だか嬉しくなっちゃって」

「……」

 綾波の瞳がちょっと大きくなる。驚いたみたいだ。僕だって、たまにはこんなことも言うんだから。

「…なっ、何をいうのよ」

 あ、赤くなった。やっぱ、可愛いな。

「ふざけてる訳じゃないからね」

 逢うたびに綾波が綺麗になっていくような気がする。今は双方の都合を合わせるのも一苦労だから、余計にそう思えるのかも。


 ――逢うたびきみは 素敵になって

     そのたびぼくは 取り残されて――


 僕は、君に相応しいんだろうか? 綾波は見るたびに綺麗になっていくのに、僕ときたら日々の忙しさに巻き込まれっ放しだ。

 何だか、綾波に取り残されていくみたい。不安が胸を掠めていく。もちろん綾波を疑ってる訳じゃなくて、僕が一方的に置いてきぼりになってしまうって感じ。



 ――僕は、きみのために何ができるんだろう?









『私の、願い』

<14才の福音〜The Judgement Dayより>

Written by 柏崎夢乃











 碇君が私を見ている。

「…どうしたの?」

 息が苦しくなってくる。不思議。碇君に見つめられると、動けなくなってしまう私がいる。碇君の視線が私を釘付けにしてしまう。

「――碇君?」

 声が裏返ってしまいそう。一気に心拍数が跳ね上がる。聞こえてしまうんじゃないかしら、とそっと思う。

 碇シンジ君。かつて、第三適格者と呼ばれていた人。私にとって、それ以上でもそれ以下でもなかったはずの人。

 それなのに。

 今、この人の存在はとても大きい。いつも傍にいたいと思ってしまう。

「…何でもないよ。綾波にちゃんと逢うのは久しぶりだし、今日はずっと一緒にいられるんだな、って思ったら何だか嬉しくなっちゃって」

 ――驚いた。今まで、こんなこと言ってくれた事はない。

「……」

 きっと、驚いたような顔をしてるはず。碇君は私の意表をつくのが上手い。初めて出会った14才の頃から、その言葉に驚かされることが多かった。

「…なっ、何をいうのよ」

 驚きと嬉しさと。自分の頬が紅潮していくのが判る。何だか恥ずかしい――昔はそんな風に感じたことはなかったのに。心臓が狂ったように打っている。碇君に聞こえてしまいそうで、困る。

「ふざけてる訳じゃないからね」

 細身の身体、優しい微笑み。見ていると身体が熱くなることは内緒。

 どちらかといえば華奢なのに、とんでもないほどの強靭さを秘めた腕。見た目よりずっと広い背中。もたれると気持ちがいいのは私だけが知っている。あたたかな胸。私をすっぽり包み込んでしまう。

 繊細な指先。見ていて飽きることがない。チェロを弾く碇君は、とても素敵。

 まっすぐな眼差し。黒い瞳。光の加減によってその瞳が蒼くきらめくことがあるのは、多分私だけの秘密。

「行きましょうか?」

 碇君は、呪縛から解き放たれたように微笑んだ。木漏れ日みたいな笑顔。

「行こうか」

 手をつなぐ。彼の指と私の指が絡み合う。



 ――大切な、あなたのために。私は何ができるのだろう――










「…きれいだね」

 今日は丘に登った。海がよく見える。きれいだけど、海からやって来たものにいい思い出はほとんどないのを思い出して、僕の胸に苦い思いが広がる。

「どうしたの?」

 綾波が僕の顔をのぞき込む。

「思い出してたんだ」

「?」

「<海より来たりしモノたち>のこと」

 綾波も顔をちょっと曇らせた。三年前の、あの事件――事件、って言っていいのかな?――のことは、僕達『適格者』にとって、決していい思い出ではない。

 ただ、綾波に出会ったことをのぞけば。

「――そうね」

 綾波がふわりと立ち上がり、海を見やる。その背に光の翼を見た気がして、僕は思わず目をこす
った。

 今日の綾波は白いノースリーブのシンプルなワンピース。フレアーのたっぷり入ったスカートと肩にかけたレースのショールが、大きく風にあおられている。あの頃は制服とプラグスーツぐらいしか見たことなかったけど、今はそれなりに気を使ってるみたいだ。

 細いうなじに、光が降る。銀の髪が逆光に映えて、宗教画の天使の輪のようにきらきら輝く。

 綾波が風に向かって大きく腕をひろげた。古い映画のヒロインみたいだ。



 ――ばさっ。



 ひときわ大きな風音。白いショールが翼のように舞い上がった。

「!」

 このまま翼を風にまかせて、どこかへ飛んでいってしまいそうだ。

「…あ、あやなみっ!!」

 綾波が振り向いた。深紅の瞳が気づかわしげに曇っている。僕の声が、そんなに切羽詰まって聞こえたんだろうか。

 申し訳なくて、僕は笑って見せる。だって、彼女は本当はとても心配症だから。

「……いかり、くん?」

 大丈夫。負けないよ。だからそんな顔しないでよ。ね…。










 今日、私は白いワンピースを着ている。この服を買った時、そのままだと肌が出過ぎる気がすると碇君に言ったら、アイボリーのショールを合わせたらどうかと言ってくれた。

『――ウェディングドレスみたい』

 と思ったことは内緒だ。どうしてもこのワンピースを欲しいと思った時、私自身がそんなことを考えるようになるなんて、信じられない思いだった。

 碇君はきっとそこまで深く考えてはいなかっただろうけれど、私は嬉しかった。

 いつか、この思いが届くのだろうか。いつか、白いヴェールを被って碇君の隣を歩く日が来るのだろうか。そして、私がこんな夢を見てもいいんだろうか。

 いいえ、私は夢なんか見ない。望んでも叶わない夢なんか見ない。私は『ヒト』ではないのだから――『血』を流すことのない『作りもの』なのだから。

 それなのに、碇君は私を

『綾波が好きだよ』

 と言ってくれる。碇君の微笑を見るたび、私の胸は震える。身体が熱くなる。

 何も知らない人形だった私に心をくれたのは碇君だった。自分の中にも『ヒトの心』が眠っていたことに気付いた時、私は初めて、嬉しくて泣いた。

 嬉しくてこぼれる涙を、私は不思議なものを見るような気がしたことを憶えている。










 碇君はまた考え込んでいる。最近、一緒にいても上の空だったりする。まるで三年前の私と碇君が反対になったみたい。

 碇君と私は同じクラスだけれど、碇君はあまり出席していないのだ。週に3日くればいい方、かも知れない。いつも空っぽの机を見ると、涙が出そうな気分になる。

 だけど、私には役目が――碇君が欠席がちなのを補うという役目がある。別に頼まれた訳ではないのだけれど。

 あの頃碇君がよくそうしてくれたように、授業の記録を取り続ける。科目ごとに整理して、一日の授業が終わったら碇君宛てにデータを送信すること。

 そうすると、とんでもない時間になってから



『>TO 綾波

 >いつもありがとう。助かるよ。

 >明日は学校にいけると思うんだけど、まだ判らないんだ。

 >ついでで申し訳ないけど、生物の課題、代わりに提出してくれないか
  な。行けなかったら困るから。(添付ファイル)

 
 >綾波、いつも、本当にごめん。感謝してる。

 >絶対に、ちゃんと埋め合わせするからね。考えてはいるんだよ。

 >綾波に会えないのは僕もつまらないんだけど、どうしても、優先したい事情があるん
  だ。本当にごめん。

 >今夜は綾波と写した写真を見ながら寝ます。
 
 >おやすみなさい。
                     ――FROM シンジ』



 こんなメッセージが私のパソコンに届くのだ。寂しいと思うけれど、あの頃の私が碇君をどう扱っていたかを考えると、恥ずかしくて赤面してしまう。

 つっけんどんで無愛想で、碇君のやさしさにとまどってばかりいた。無償のやさしさ、というものがあるということをあの頃の私は知らなかった。そういうものを知るには、私の周囲はどす黒く汚れ過ぎていたのだ。

 そんな私の前に、はにかんだ笑顔の少年が現れた――碇君。他の誰とも違う、こんな奇妙な外見の私を特別扱いしない人。

 ううん、正確には特別扱いしてくれた。私を敬遠する他の人と違って、特別やさしくしてくれた。とまどう私を、ずっと見つめていてくれた。

 そして、少なくとも、碇君は何も見返りを要求したことはなかった。

『綾波がいやならやめる』

 っていつも言っていた。自分が押し付けがましくないか、としょっちゅう気にしてばかりいた碇君。周囲の人から見れば、どれほど碇君が私を特別扱いしてくれていたか一目瞭然だっただろう。

 あの頃、葛城三佐はよく私のことで碇君をからかっていた。そんな時、いつも碇君は耳まで真っ赤になって

『ミサトさんっっ!!』

 なんて情けない声をあげていた……。










「……なみ、…やなみ? 綾波!」

 ――いけない。上の空になっていたのは私の方だったかも。

「碇君」

「はい、ショール。気を付けてね、ここ、意外と風が強いから」

 そうだ。さっき風に飛ばされてしまったんだった。考えごとをしてるとばっかり思っていたけど、ちゃんと私のことも見ていたらしい。

 はにかんだ笑顔は昔のままだ。一瞬錯覚してしまう――14才の、あの頃と。

「…あ、ありがと…」

 碇君の手が、ショールを私の肩にかけてくれる。私の隣に腰をおろして、二人で海を見る。碇君は、3年の間にずいぶん逞しくなった。背が伸び、肩幅が広くなって、顔立ちも少し大人びてきた感じ。

 相変わらずやさしい掌も、あの頃より大きくなった。

 柔らかな笑顔は変わらないけれど、その奥にあるものが変化を物語る――考えたら当然かも知れない。碇君は、文字どおり『死線』を越えたのだから。

「…僕の都合で振り回してばっかり、だね。――ごめん」

 私は、碇君の肩に頭をもたせかける。耳許に聞こえる碇君の声があんまり心地よくて、その心地よさに胸がきゅっと痛くなる。

『――傍に、いて』

 胸の中でそっと呟いてみた。



「傍にいてね、綾波……もうどこにも行かないでね」



 どきっ。口に出して言ってしまったかと思って、胸の中で心臓が飛び上がった。碇君の声だと気づいて、もっとどきどきしてしまう。

 おそるおそる碇君の瞳を見る。目が離せなくなってしまう。

「もうどこへも行かせないから……」

「…え?」

「――もう、嫌なんだ。綾波が何かに利用されたり、そのことでつらい思いをしたりするの、嫌なんだ」

 碇君の瞳。まぎれもない蒼に見えるのは、どんな光の加減?

「どこにも行かせないから……」

『!』

 息を呑むほど、強く抱きしめられた。

「…碇、君……」










 碇君が、泣いている。私を抱きしめたまま、声を殺して泣いている。

「あいつらには判んないんだ。いつまでも僕達を道具だと思ってる。でも、僕は負けないから――
待たない。もう、待つのはやめる」

 意味が良く判らない。確かなのは、私の肩に落ちる碇君の涙の雫だけ。熱くて冷たい雫が、むき出しの私の肩にこぼれていく。

「僕は、もう、待たない」

「碇君?」

「約束するから…綾波をだれにも渡さないから――僕は、綾波を手放すつもりなんて、これっぽっちもないんだから!!」

 意味は判らないけれど、碇君の『思い』が流れ込んでくる。混乱した私の頭の中に、碇君の言葉の破片がぐるぐる回っている。



   ――哀しいから、泣くの?

   ――苦しいから、泣くの?

   ――つらいから、泣くの?

   ――それとも……?



 自分がもどかしい。いまだに、こんな時どうしてあげたらいいのか判らない。葛城三佐なら、こんな時どうすればいいのか知っていたかも知れない……もういない、ひと。

 碇君の身替わりになったと聞いている。破綻しようとする精神を、アルコールと仕事でつなぎ合わせて生きていたひと。飾り気のない人柄と、きれいな笑顔を持っていた。

 教えて、葛城三佐。こんな時、どうしてあげればいいの? 私に、何ができるの?



『そういう時は、笑えばいいと思うよ』



 碇君の言葉。私の笑顔を綺麗だと言ってくれた、碇君の言葉。私……

 ――笑えば、いいの?



「…いかりくん」

 涙に濡れた碇君の顔。泣き顔は、三年前と変わらない。

「…私…力になれなくて、ごめんなさい……」

 精一杯の笑顔を浮かべた、つもり。お願い、碇君。

 …笑って……。










「…いかりくん」

 シンジは、顔を上げた。涙にぼやけた目に飛び込んで来たのは、心配そうなレイの紅い瞳。その紅い瞳のふちに、透明な雫が盛り上がっている。

「…力になれなくて、ごめんなさい……」

 ぽとん。

「あやなみ?」

 口許に浮かんだ微笑を裏切って、レイの瞳は泣いていた。

「碇君…笑って……お願い……」

 ぽろぽろ涙をこぼしながら、それでもレイは微笑っている。シンジに笑って欲しい、ただそれだけのために、彼女は微笑んでいる。

「綾波――ごめん、ごめ……」

 後は言葉にならなかった。シンジはこみ上げる嗚咽を必死でこらえようとしたが、一度堰を切った感情は思い通りにおさまってはくれなかった。

「ご…め……あ…な、み……」

「わた、し……何、も、してあげら…な……」

「いいんだってば!!」

 暴発。

「綾波が謝ることなんてないんだ!! 苦しめてばっかりいる僕のためになんて泣かないでよ……おねがいだよ……」










 沈黙。

 長い長い無言の時間を気紛れな風が通り過ぎてゆく。時折しゃくりあげる声が聞こえる他、丘の上は本当に静かだった。

 やがて午後の陽ざしも傾く頃、シンジの感情の嵐は静かに潮が引いていくようにおさまっていった。しゃくりあげる声もだんだん小さくなり、やがて聞こえなくなった。

「……みっともないとこ、見せちゃったね。…ごめん」

 真っ赤に泣き腫らした目、涙の跡もそのままのシンジは、ぎこちなく微笑んだようだった。

 だが、本人の意図とは反対に、その表情は微笑とは程遠いものだった。とはいえ、レイは嵐が去った後の青空を見た気がした。

 少なくとも、ここしばらく彼の瞳から消えたことのない苦痛の色が、確かに薄らいでいたからだ。

「…みっともなくなんか…ない……」

 レイの目のふちも、赤く腫れている。彼女自身も、なんだか救われたような気がしていた。思えば、全く抑制をかけずに泣いたことなど一度もなかったのだから。

『涙って……必要、なのね』

 そんなことをレイがぼんやり考えていると。

「あやなみ…鼻の頭、赤くなってる」

「え?」

 泣きたいだけ泣いた後遺症とでもいうべきか、レイの鼻の頭はうっすら血の色をのぼせて赤くなっている。涙の副産物をこらえようとして、つい手の甲でこすってしまったためだ。

「い…碇君だって、赤いわ」

 シンジの目のふちと、まだ涙で汚れている頬と、鼻の頭を、レイの白い指が指摘する。

「あ」

 あわてて、シンジは顔中をごしごしと拳でこすりまくった。ところが、結果として逆効果になってしまい、彼の顔はますます赤くなってしまった。

「や、やだなぁ、こんなの」

 情けない声を上げて、さらにごしごしやる。

「ど、どうしよう」

 ――どつぼにはまり込んだらしい。レイが目を丸くして見ている前で、動揺しまくったシンジが必死で顔をこすっている。

「…くすっ」

 ついにレイが吹き出した。気がついたシンジが、情けなさそうに言う。

「……そ、そんなにおかしい?」

「…おかしいわ……くすくすくす……ふふふっ……」

 声を上げて笑うレイを、シンジは呆気に取られて見守った。だが、すぐに

「や、やだな、綾波……ぷっ」

 つられて笑い出す。

「…くすくすくすくす……」

「もう…笑わないでよ、綾波……おっ、怒るからね……」

 ひとしきり、笑い転げる。激しい感情の嵐の副作用は、彼等を確かに幸福にした。それをもたらしたものがなんであれ、笑いあう彼等は幸せだったのだから。










「綾波」

 ようやく笑いやんで、シンジがレイを呼んだ。

「?」

 真正面から瞳がぶつかる。とたんにレイは動けなくなってしまう。息詰まる沈黙。

「あ…あのさ、綾波…」

 ふっとシンジの視線が外れた。何か言おうとして……



『――キスしても、いい?』



 呪縛の解けた瞬間に、シンジの唇が重なった。

『!』

 一瞬、驚きで身体が硬くなるのが判った。だが、レイはすぐに何故か『懐かしさ』を感じている自分に気がついて、まぶたを閉じた。

『この感じ……知ってる……<私>じゃないけど……<あなた>なの…?」

 記憶をくれた『二人目』に、そっと問いかける。覚えている限り、今の自分はシンジとこういうことはしていない。にもかかわらず、シンジの唇の感触を憶えていると言うことは、きっと『そういうこと』なのだろう。

 胸がきゅうっと痛くなる。この胸の痛みは、なんなの……?

『…碇君……』

 何がなんだか判らなくなってしまう。私、溶けてしまいそう……。










 最初の夕暮れの風が、丘の上を渡っていった。

「…寒くない?」

「少し」

 唇を重ねた後、恋人達は肩を寄せ合ったまま無言で海を眺めていた。

『2度目の1st Kiss』

 シンジの胸に、そんな言葉が去来する。あの時唇を重ね、心を重ねた相手はもうこの世界に存在しない――正確には『彼女』の記憶を受け継いだ彼女が存在しているのだが。

『彼女』は、光の中に消えてしまった。何があっても彼を護るという、自らの誓いを果たして逝ってしまった。



『R・E・I』



 消せない、いや、消したくない思い出。

 今、彼が携わっている『仕事』は、ジャジメント・デイ以前の彼には耐えられなかっただろう。

 今の彼を支えているのは、かたわらに座る恋人の存在――あの時、およそあり得そうもない真実に混乱したのは事実。

 物語にすらなりそうもない現実を突き付けられた瞬間、人間は呆気なく正気を手放すものだと思い知らされた。けれど。

 今、彼は真実、かたわらの恋人をいとおしく思う。

『僕は……君を護るよ』

 もう何度目か忘れてしまったけれど、改めて心に誓う。もう遠いあの日、『彼女』が

『あなたは死なないわ……わたしが、護るもの』

 と、誓ったように。

『彼女』の遺志が、今のシンジをつき動かしている。

『彼女』の『願い』は確かに託され、そして受け継がれたのだ。



――今、ここに存在している『綾波レイ』に。そして、彼、碇シンジに……。










 陽が落ちて、夕暮れの色が濃くなってきた。濃い茜色に染まった海は、シンジにあの日の『地獄』を思い起こさせる。

『…誰も彼もが、一つになる事を望んでた訳じゃない……』

 自嘲ぎみの呟き。彼の父親は、失われた伴侶を取り戻したいという妄執に囚われた挙げ句、この結末を招いた張本人だ。

 今なら、自分の父親の妄執が少しは判るような気がする。この広い世界でたったひとりの、己の半身となるべき存在を得て、その存在を目の前で失ったのだから。

 ――許しはしない。けれど父を理解することなくこの先へ進むこともまたできないだろう、とシンジは思っている。

 彼もまた、その妄執に似たものを抱いて生きているから。

『…綾波……』

 暖かなその身体の感触を確かめる。そのぬくもりに今の幸せを実感するけれど、それが永遠に続くものなのかどうか、まだシンジには確信が持てない。



 3年経ってようやく、海は元の純粋な青色を取り戻しつつある。



『帰還』してくる人数が増えるにつれて、忌まわしい血の色は薄まっていった。人々の心と身体を溶かし込んだ始源の水は、もう一度生命を生み出すことになった。

 それが『神の奇蹟』なのかどうかは誰にも判らないことなのだけれど――。

「…寒い」

 レイがそっと言う。シンジの考えごとを邪魔しないように、ひっそりと隣に寄り添っていたのだが、 気温はすでに下がり始めていたのだ。

「――あ、ごめん……気付かなくって。そんな薄着してたら寒いよね。帰ろうか?」

 こくりと無言でレイは頷いた。

「…送っていくよ」

 立ち上がったシンジが、レイに手を差し伸べる。

「……」

 ぐいっ。

「わっ?!」

 ――どさっ!!

 どうやら、レイは内心不満を抱えていたらしい。シンジはレイに勢い良く腕を引っ張られ、バランスを失って――レイの上に倒れ込んだ。



『!!!』



 いつかこんなことがあったような気がする。夕暮れの丘の上で、こうして互いの息遣いを間近に聞いていたことがあったような気がする。

 レイの中でそれは確信に変わった。覗き込んだシンジの瞳が、とまどいに揺れている。

 風の匂い、草の匂い、土の匂い、彼の身体から立ち上る汗の匂い――その全てがいとおしい。夕焼けはすでに薄れて消えかけ、夜のとばりが静かに丘の上を覆い始めていた。

「…いかりくん…」

 彼のぬくもり、彼の身体の重み、彼の息遣い。

「そばに、いて……」

 そっと目を閉じる。彼の逡巡を押しのけるように。

「あ、あやなみ…?」

 少しうろたえたようなシンジの声。また、レイの胸がきゅうっと痛んだ。

『…何故、こんなに胸が痛いの? 何故?』

 くり返される疑問、胸のはるか底にたゆたう、いまだかたちの知れない『答え』。

『――アナタハ、嫉妬シテルノヨ……』

 不意に明確なかたちになった言葉。そして、閉じたまぶたの裏にゆらりと立ち上がる人影。

『嫉妬?』

『ソウ。アナタハ、碇君ノ心ノナカニ生キテル<アタシ>ニ嫉妬シテルノヨ』

 おぼろな後ろ姿が振り向いた。それは、14才の綾波レイ=彼女自身。

『綾波レイは私ひとりよ』

『碇君ノ心ニハ、今モ<2人目>ノ綾波れいガ生キテルノ――アナタハ、アクマデモ<3人目>ナノ。アナタハショセン身代ワリナノヨ』

 14才のレイは、紅いガラスのような眼差しで17才になった彼女を見つめる。

『そんなこと、ない』 

『……ソウ?』

 14才のレイが追いうちをかける。その言葉を否定しようとして、

「そんなこと…ないわ……」

 と、彼女は思わず口に出してしまった。

「綾波?」

 はっとして、レイは目を開いた。覗き込むシンジの目は、今、とまどいの代わりに彼女を気づかう色に満ちている。

「――どうしたの?」

 シンジの瞳に映る、紅い瞳の少女。

「きみは……」

 透き通る紅い瞳、どこか造り物めいた表情――それはかつて彼が愛した少女。

 あの日、光の中に消えていった、彼女の面影。

「!!」

『還ってきたわ』

 レイの唇が、彼女の意志とは関わりなく動く。

「――いや!!」

 突然ほとばしった叫び声。

「…いかりくんを…取らないで!!」

 17才の、今のレイの表情が戻ってくる。困惑、混乱、恐怖、そして言い様のない感情=『知って』いるだけでしかない14才の自分自身への嫉妬、に翻弄されているのだ。

「いや、いや、いやああぁっ」

 紅い瞳が焦点を失う。レイは、力任せにシンジにしがみつく。まるで、そうすることで自分の存在を確かめようとするかのように。

「綾波?!」

「そばに、いて…私、いかりくんの、そばにいたいの……!!」

 悲鳴のようなその言葉に、シンジは胸を衝かれた。自分がこれほどレイを不安がらせていたことにどうしてもっと早く気付かなかったのか、と、強い自責の念が込み上げる。

「あやなみ」

 できる限り穏やかに、恋人を呼ぶ。欠落したままの記憶の陥穽にはまり込んだ、彼女の耳に届くように。

 レイの身体がぴくん、と反応した。

「――そばに、いるから」

 シンジの声が、震えて、詰まった。

「もう、離さないから……」

 レイの紅い瞳が、シンジの顔に焦点を結んだ。

「…碇君……?」

「ほんとだよ。もう寂しい思いなんかさせない。綾波をひとりぼっちになんかしない……一緒に、暮らそう?」

 しかし、言ってしまってから、シンジは自分の言葉のとんでもなさに気がついた。とたんに顔が真っ赤になってしまう。

『あ、あ、あ……僕、今…とんでもないこと言っちゃったよーな……ど、どうしよう???』

 だが、無言でレイはシンジの胸に顔を埋めた。純粋に、いつもシンジと一緒にいられるようになるということが嬉しくて。

「…うん」

 そのレイのいじらしい様子を見ていると、失言でした、とはとても言えなかった。いくら何でも、これ以上彼女を悲しませるようなことはしたくない。

 実際、それはシンジ自身の望みでもあったのだから――離れていればいるだけ、逢いたい気持ちがつのってつらくなる。

 逢ったとたんに『じゃあね』とその日の終わりの言葉を言う悲しさを恐れてしまうのだから。

「…とにかく、帰ろう? 先のことは、それから考えようよ。ね?」

 幼子のように素直に、レイはこっくりと頷いた。身も心も疲れ切っていて、考える力も大して残っていない。考えはじめたらきりがなくなる。

 彼は一度口に出したら、どんなに時間がかかっても必ず実行する人間だということを彼女は知っている。だから、無理をして今自分が考えなくてもいいのだとレイは結論付けた。

「……」

 シンジの顔を見上げて、レイは我知らず微笑を浮かべていた。シンジの目に、レイのその微笑は咲きそめる花のようにまぶしく輝いて見えた。



 ――君が笑うとただ訳もなく、僕は嬉しくて――



その微笑の美しさに言葉を失うシンジを、レイはただ見つめている。彼を魅了してやまない笑顔。

『綾波が笑ってくれるなら、僕はどんなことにでも耐えてみせる――きっと』

 どんな犠牲も絶望的な努力も、その微笑の前には色褪せる。彼女の笑顔ひとつが彼の支えとなるのだから。

 そしてその微笑を護る為なら、どんなことにも耐えていこうとシンジはそっと心に言い聞かせた。










 茜色は既に消えて、夕闇から夜空の藍色が広がっていた。東の空に十六夜の月が登り、涼やかな光を投げかけている。

 その光を受けて、レイの銀の髪や大理石のようなその肌、着ているワンピースまでが自らきらきらと光を放っているようにも見えて、シンジの瞳を釘付けにする。

『月下の女神(アルテミス)』

 柄にもなくそんな詩的な言葉を呟きそうになって、シンジはひとりで赤面してしまう。

「…碇君、寒い」

 ぽつんとレイが言う。

「こんなのしかないけど、これで良かったら、着る?」

 シンジは、自分が上に羽織っていたコットンシャツを脱ぐと、レイの肩にふわりと着せかけた。

「…ありがと…」

 シンジのぬくもりの残ったシャツは、レイを冷たい夜風から護ってくれる。

『…碇君の、匂い』

 レイを包み込む、シンジの匂い。ふとその腕に抱かれているような錯覚をおぼえる。

「………」(かぁっ)

 つい余計な想像をしてしまって、レイの白い首筋から上が火でもついたみたいに赤くなった。これまでになくシンジの存在を間近に感じる。すぐ隣を歩いているだけで、心臓が破裂しそうな気分だった。



『どうしてしまったの、私……?』



 嬉しかったのは事実だ。シンジが『一緒に、暮らそう?』と言った時、レイは嬉しさの余り口もきけない程だった。もうこれ以上離れていることに、耐えられそうもない。

 不安のまっただ中に取り残されて、シンジから届くメッセージだけを正気の命綱にしている今の生活は、レイにとって余りにも苛酷なものだったからだ。

 そして、先刻のキス。シンジの唇の感触を思い出す。本当に自分の唇に彼の唇が触れたのかと思うと、今でさえ身体の力が全て抜けてしまいそうな気分になる。

 自分と言う存在がどれほどシンジを求めていたか、改めて思い知らされた。身体の奥底が蕩け出して、熱く煮えたぎる。それが一体何なのか、まだ彼女は知らない。



『別々の存在のはずなのに……どうしてひとつになりたがるの?

 わたしと、碇君……一緒にいると、心が安らぐ。一緒は、楽しい。

 何もなくても、何もしなくても。黙って寄り添ってるだけで、楽しいの……』










「あやなみ」

 丘の上からの帰り道で、シンジがぽつりと言った。

「…何?」

 白い月明かりの中、シンジの黒い瞳に蒼いきらめきが宿って揺れている。

「――僕で、いいの? 綾波は…僕を選ぶの?」

 シンジ自身が持て余す、極端から極端へ振れる感情の振り子。言わなくてもいいこと、聞かなくてもいいことが唇から勝手にこぼれてしまう。

しかし、言ってしまってから、後悔した。





『さっき自分で言ったくせに……なんてざまだよ』

『僕が護るって、誓ったのに』

『そばにいるって、約束したのに』

『――でも、綾波は――』

『ホントウニ、僕デイイノカ? 僕ハ、綾波ヲ束縛シテルンジャナイダロウカ?』

『…僕ナンカデ……』




 不安そうな、迷子の子犬みたいな瞳。

 内面の葛藤が手に取るように判る。

『…いかりくん…』

 あの頃よく見た、頼りなげな表情。最近は、感情を押し込めたように表情を消していることの方が多くて、ここまで内面を見せてくれる方が珍しい。

「僕で、いいの? 綾波は…」



 ――僕を選ぶの?



 怖いくらいに真剣な瞳だった。うつむきそうになる顔を、意志の力でかろうじて押しとどめているようで。

「い、か…り――」

 声が出ない。自分へのいらだちばかりがつのっていく。

「わ、わた、し……」

 ぱりん。何かが、私の中で砕け散った。

『……イカリクンノコト…ヨロシクネ……』

 14才の私が、哀しそうな微笑を浮かべていた。

『アタシハモウ、ココニハイラレナイカラ』

『なぜ?』

『アタシノ役目ハ、終ワッタノ』

『ここにいて』

『ナゼ?』

『――あなたは、わたしだから』

 収束していく影。制服を着た14才の私の姿が薄れて消えていく。

『…モウ、アタシハ必要ナイノ……アナタニモ、碇君ニモ』

『そんなことないわ』

『アナタハ、アタシ――ダカラ、サヨ、…ラ』

 消えた。



「碇君!!」



 喉がこわばって、自分の声とも思えないしわがれ声になってしまった。

「あ…」

 ためらいと闘いながら、碇君へと腕を差し伸べる。

『彼女』の思いを、無にしないために。思いを伝えて、かたちにするために。










 綾波は凍りついたように立ちすくんでいる。

『当たり前だよね……見捨てられても――僕なんか……』

 このままきびすを返して歩き去る方がいいと判っているのに、身体が、足が動かない。握りしめた右手に爪が食い込んで、ずきずき痛み始めた。

 せめて目を離すまい。みっともなくうなだれてるままなんて、あんまり綾波に悪い。

 挫けそうな意志の力を総動員して、顔をあげる。どんな答えが返ってくるにしろ、それは僕に対する綾波の決断だから。



「碇君!!」




 ひどくしわがれた、綾波の声とも思えない声。綾波の紅い瞳が揺れて――

「あ…」

 差し伸べられる、腕。僕を受け入れるために。



「…あやなみ…」



 力の限りに抱きしめる。柔らかなその身体、折れてしまいそうに華奢な綾波の身体。




  ――柔らかな、君の全てを――




「本当に僕で、いいの?」

「碇君でなきゃ、だめなの」

「僕は――」




  ――君が好きだから いつもそばにいて

         ささやかな『私の、願い』――




*** Fin ***




To be Continued......From『EVA 14teen 〜 The Judgement Day〜』























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