Written by 柏崎夢乃
彼女に訪れた変化の兆し、それは、ひとりの少年だった。
少年の存在を、彼女はずいぶん早くから知っていた。
現在確認されているEVAの適格者は、現時点で3人――第一適格者「綾波レイ」、第二適格者「惣流アスカ・ラングレー」、そして第三適格者「碇シンジ」。
彼女は、書類の上だけにしても、少年の顔と名前を知っていた。そして、その少年が『特別な』血縁者を持つことも。
――このヒトが現れたら、あたしはいらないモノになってしまうのかしら?――
彼女は、それを恐れていた。彼女が何よりも望んでいたはずのことでありながら、心底恐怖していたのだ。その恐怖に、自分が恐怖を抱いていることさえ、彼女自身は気づいていなかったのだけれど。
この歪んだ輪廻から自由になりたい、ずっとそう思って来た。しかし、自由になるということは『ひとり』になるということ。そして『誰か』が『自分』の代わりになってしまうということ。
その時、彼女には何もなくなってしまう。彼女には何ひとつ残されない。
それは、とても怖いことだった。
――あたしが死んでも、代わりはいるもの――
そして、運命のあの日。
「ぼくが、ぼくが搭乗ります!!」
彼女の知らない少年が、そこにはいた。
顔と名前は確かに知っていた。しかし、実際に彼の声を聞いたこともなければ触れたこともなかったことに、彼女は気づいた。
少年は、衝撃で倒れたストレッチャーから転げ落ちた彼女を、躊躇うことなく助け起こした。
『気味が悪い』
誰もがそう言い、誰も必要以上には触れたがらなかった彼女を。
それから、しばらくは穏やかな時間が流れる。
逡巡と行き違いと謝罪をくり返しながら、それでも少年はなんとか彼女との接点を維持しようと努力していた。
『何故? 何のために?』
そんな彼の努力が、彼女には理解できなかった。理解はできぬまま、それでも決してそれが不快なものではないということにも気づいていた。
彼の言うこと、やることを訝しがりながら、それなのに目を離せずにいる。
彼から目を離せない、そんな自分さえも訝しかった。
それは、今まで誰ひとりとしてやろうとしてこなかったことをやった初めての人間が彼だった、ということではあるのだが。
ヤシマ作戦の夜、少年が流した涙。
彼女のために流された涙。
・・・きらきらと輝いて、暖かかった彼の涙・・・
そして忘れもしない、ユニゾントレーニング。
海を渡ってやって来た第二適格者の少女と、少年。何度やってもまったく息が合わなかった。所在なくその様子を見つめていたその時、突然彼女はこう思ってしまったのだ。
――あたしなら、もっとキレイに重なれるのに――
何故そう思ったのか、いまだに判らない。しかし、結果は歴然としていた。
「レイ」
指揮官、上司、少年の保護者、彼にとっての『家族』でもある女性の静かな声。
「――はい」
彼女は立ち上がり、ふくれっ面のもうひとりの少女と交代した。ヘッドホンから音楽が流れだし、手足がそのリズムのままに動きだした。
・・・このヒトの動きがわかる・・・
・・・あたしと同じリズムを持ってる・・・
・・・だからキレイに重なれる・・・
――キモチイイ――
ミスひとつなく流れてゆくトレーニングプログラム。先刻までの醜態が嘘のように、軽やかに同じ動きを重ねる少年と彼女。
同じリズムを重ねて、流れのままに――あなたはあたしの光、あたしはあなたの影。そう、それはとてもとてもキモチノイイコト。
そして、その場に呆然と立ちすくむ少女の蒼い瞳からひとしずくの涙がこぼれたのを、彼女は見た。
『何故泣くの?』
そう聞いてみたかった。けれど、そんな間もなく少女は足音も高く身をひるがえし、外へ飛び出していってしまったのだ。
飛び出していった少女の涙の意味を理解するほどには、まだ彼女の心は成熟してはいなかった。そして、自分の心に変化の兆しが訪れていることさえ、彼女自身、まだ気づいていなかった。
蒸し暑い外から戻って来たら、まっ先に彼女はシャワーを浴びる。流れるような汗をかくことは滅多にない。しかし、皮膚の表面を薄い皮膜で包まれてしまっているような不快な感覚がある。
それが嫌で、ベッドの上に制服を投げ出すのももどかしくシャワールームへ一直線に向かうのだ。
――ざぁぁぁぁ・・・
流れる水が、彼女の世界を閉ざしてゆく。聞こえるのは水の音だけ、肌の上を流れてゆく水の感覚だけが彼女を支配する。熱い流れが、彼女の表面をなぞってゆく。
けれど。心は深閑と冷えたままだ。今の彼女は、自分が『冷えて』いることに気づくまでになった。そして、それが不快なものであることにも。
『この気持ちはどこからくるの・・・前にはこんな気持ち、感じたことはなかった・・・碇君が来てから、こんな気持ちを感じるようになった・・・だったら・・・碇君なら知っているかしら・・・』
もうひとりの「碇」の名を持つ人物。少年の本来の「家族」。自分を排除させるかもしれない存在として、少年を敵視していた少し前の自分。
しかし。いつの間にかその優先順位が逆転して来ていることに、まだ彼女は気づかない。
はりついた汗を洗い流そうと身体に掌を滑らせて、その手がはたと止まった。
『・・・碇君の、手・・・暖かかった・・・』
まだ幼い身体のライン――「女」として発達し始めたばかりの、生硬さが見て取れる。
偶然の事故から、少年は彼女の胸に手を触れてしまった。その行為がいったいどういう意味を持つのか、彼女にその知識はなかった。しかし、哀れなまでに狼狽えた少年の表情とその掌のぬくもりは、彼女の脳裏にあざやかに刻み込まれていた。
自分の胸に手を触れてみる。しかし、あの感覚は甦ってこない。
『・・・暖かくない・・・何故・・・碇君の手じゃないから・・・?』
自分から誰かに触れたいと願う日が来るなんて、今まで思ってみたこともなかったというのに。
・・・そして・・・
「・・・碇君」
「え? 綾波・・・? 帰ったんじゃ、ないの?」
「絆、だから――」
彼女は、少年とともに一夜の夢を見た。その夢はとてもとてもかなしい夢だったけれど、痛みを感じる、そのことさえもが嬉しかった。
もう彼女は本当の意味での「ひとり」にはなれない――なろうとさえ思わない。なぜなら・・・
to be Continued......「made in HEAVEN」