2016年3月28日


 雨が降っている。
 
 ほとほとと窓を水滴が叩く音で女は微睡みの縁から引き剥がされた。

 一体どれくらいの時間をここで過ごしているのか。

 感覚は既に、ない。

 ただ、毎日差し入れられる食事と日々癒えていく傷だけが、女に時の流れの確かさを教える。

 けれど、何の意味があろうか。



 ぼんやりと白いベッドの上で過ごす毎日。

 もう、何もない。

 一番欲しかった物は手に入らなかった。

 一番失いたくなかった物は最初から自分の物ではなかった。



 信じていたわけではない。

 祈っていたわけでもない。

 醜きは、人。所詮、裁きの刃を持つに値せぬもの。

 人を踏みにじり、裏切り、その末に手に入れたものは、ただの虚ろな筺でしかない。



 何もない。

 空っぽの。

 この肉体という名の『筺』。



 何もない。

 ただの哀れな残骸。



 砂上の楼閣は、最早崩れ果てた。

 だから、女はここにいる。

 この鉄格子に遮られた部屋に。

 自ら命を絶つことすら許されない部屋に。



 何故、私はここにいるのだろう。

 何故、私は生き残ってしまっただろう。



 胸に残る傷跡は、深さも位置も致命傷に近かった事を表していた。



 何が命を繋いだのか。



 たゆたう薄闇の中で繰り返した問いに、答えが返ることはない。



 それでも、女は考え続ける。



 縋り付く思惟。

 ただ、それだけが、女自身の正気の証であるかのように。





 雨が降っている。

 ただ、全てを流しつくす、ように。

 けれど、後悔が流れ去る事だけは。

 決して、なかった。









gospel.JPG
written by 叶 京
第4話 忘却の代償
boukyaku no daishou






2022年3月25日 第三新東京市


 意識せずにため息を吐くのは年をとった証。

 その後に周囲を見回すのは、自分の年齢を意識しすぎている証。



 ため息を吐いて周囲を見回した刹那に、ふとそんな言葉を思い出して、リツコは苦笑した。

 身の回りに全く人がいない、というのも最近では珍しい。

 学園都市への移籍に伴い、この研究室を支給されて3年。

 いつの間にか、周囲に人がいる事に慣れてしまった自分に少し驚いて。

 けれど、その戸惑いに似た感情は、ほの暖かいもので。



 NERV時代にはついぞ感じたことのない感覚である事に思い至った。



 こぽこぽと心地よい音をたて始めたコーヒーメーカー。

 染みついた紫煙の薫りを覆い隠すように漂う甘い香り。

 開けはなった窓からは、初春の柔らかな日差しが差し込んでいた。



 あの灼熱の15年間が幻だったように四季を取り戻したこの国の、最も美しい季節。

 何の悩みもなければ、これ程理想的な昼下がりもないだろう。

 本当に、何の悩みも懸念もなければ。



「…でも、あまりのんびりしていられないのも、事実、よね…」

 時計を見て、リツコはもう一度溜め息を吐く。

 約束した時間まで、後10分程。

 思い出した瞬間に、春の陽の心地よさは何処かに消えていってしまった。

 来客を迎え入れる準備は全て終わっているとはいえ、かなり気が重い。



「…本当に…。困ったものね」

 つい、ぼやきに似た独り言が出てしまうのは、それがリツコの偽らざる本音だからだ。

 結局、リツコは直球勝負を決断せざる得ない状況に追い込まれた。

 つまり、何らかの理由をつけて本人と会い、その為人を自分の目で確認する、という実に何の捻りもない結論に至ったのだ。

 策謀を巡らせ『魔女』とまで言われた自分らしくもない。

 もう少し冴えた手段はないものか、と思うが、それしか思いつかなかったのだから仕方ない。

 レイとの会話がぎくしゃくし始めて既に3日。

 このままでは…。という、いても立ってもいられないような、怯えに似た感情がリツコの背中を押した。

 限界、だった。



 軽い音を立ててコーヒーメーカーから蒸気があがる。

 続いて、赤いランプが緑に変わって、サーバーの設定が自動的に保温状態に移行した。

 コーヒー殻を処分しようと立ち上がった所で、来客を伝える呼び出し音。

「来たわね」

 呟いて、再び時計を見ると、リツコ自身が指定した14時をきっかりと指している。

 時間通り。事前調査に違わぬ几帳面な性格らしい。



 リツコとて、何時までも顔の見えない異邦人に引っ掻き回されるつもりはない。

 心の中で必要事項を暗唱して、一つ深呼吸をする。




 眸子に嘗ての光が蘇る。

 そして、その眼光を笑みで覆い隠して、リツコは研究室の扉を開けた。










 散々悩んだ末にマヤが選んだのは、ココアだった。

 表示の枠が金線で縁取られているココアは、他の並んでいる飲み物より数段値段が高い。

 だが、自動販売機で売られている安っぽい飲料の中で、奇蹟のような薫りと味は、舌の肥えたマヤを十分に満足させるものだった。

 鼻歌交じりに、湯気の上がるカップを取り出して、香りを満喫する。

「やっぱり、健康にはココアよね」

 満足気に一人頷いて、天気に誘われるように、自然と足は日当たりの良い南側へ。

 休憩時間であれば、憩いの場として、それなりに混雑しているこの場所も、今は時間帯が時間帯だけに、マヤ以外に人影はなかった。

 今頃、同僚達は忙しく働いているのか、と思うと少し後ろめたい気もするが、ここ暫くは昼休みもないくらいに働いていたことだし、上司直々の『頼み』ではあるし。

 開き直ったつもりで、マヤは木のベンチに腰掛けて、ポケットに入れていた文庫本を取り出した。
 ここの所、少しばかり凝っている恋愛小説。

 なんのことはない。ちょっとした偶然が運命の出会いに変わってしまった男と女の物語。



 1冊を読み通して、冷めたココアを口に含む。

 最終ページには次巻に『続く』の文字。

 折り返しを見ると、3巻までが刊行されていて、以下続刊となっている。

 はふっ、と息を吐く。ついでに、紙コップの中を覗き込むと、残りはもう殆どなかった。

「あらっ? もう、なくなっちゃったんだ」

 呟いて、壁の時計を見ると、30分も経っていない。

 研究室を出たときのリツコの様子から、後1時間は帰れないと踏んでいる。

 残りの時間をどう潰すか。

 さて、どうしよう。



 羽織っている白衣の端を弄りながら、暇をもてあます。

 時計を見ても、持ち主の意識に逆らうように、秒針からしてのろのろとしか動かない。

 失敗したな、と思い始めたときに、目の端に慣れない色が忍び込んだ。

 淡いパステルトーンの壁紙に、染みのように滲む灰色。

 最近目にすることが多くなった異邦人のものだと直ぐに分かった。

 販売機の向こうに見え隠れしている影を、もっと良くみようと、身体を伸ばす。

 主賓の影法師は、如何にも手持ちぶさたな風で、販売機に並ぶ商品見本を眺めていた。

 もしかすると、彼も締め出しを食らった口なのだろうか。



 そう思いついた時、ぴんっ、と音を立てて、マヤの中で何かが繋がった。



 ここは一つ、将を射んとすれば、まず馬からって言うものね。



 ごく僅かな例外を除いて、未だに『男』という存在が苦手なマヤではあるが、使命感はその苦手意識を上回った。



「May I help you?Mr…えぇと…」

 多少笑顔が引きつって、足裁きが何故か忍び歩きになっているのはご愛敬。

 ダメもと、と割り切って、できる限り他意なくさりげなく、を装って、声を掛けた所で、マヤは相手の名前も知らない事に気がついた。

 つい、口ごもって俯くと、耳触りの良い流暢な日本語が追い打ちをかけるよう降ってきた。

「クリムゾン、でいいですよ。そう言われていますから」

 顔を上げると、存外に整った顔立ちの白人が微笑を浮かべて見下ろしていた。

 何時の間に振り向いたのか、それすらも分からない。

「あっ。あの何かお困りなんですか?」

 慌てふためいて、日本語に切り替えてマヤも言葉を繋ぐ。

 とにかく恥ずかしかった。

 そんなマヤを気にすることもなく、男は苦笑しながら販売機を指さした。

「いえ、この字はなんて読むんだろうな、と」

「…『すみやきこーひー』って読むんですけど」

「なるほど、コーヒーと読むんですか。助かりました。『炭焼』までは読めたんですけど。日本語は難しいですね」

「……はぁ…」

 マヤが知っている同系統の人間とは全く違う対応。

 要人護衛という立場である以上、素っ気ない態度を執られるのでは、と思っていたマヤは、虚をつかれた形で。

 と同時に、こみ上げてくる得も言われぬ感情。

 気がつけば、マヤは吹き出していた。



「…そんなに笑う事はないじゃないですか。日本語は始めたばかりなんです」

 小さな笑いの発作が治まって、漸く息を整える頃にかけられた言葉。

 この期に及んで初めてじっくりと見た顔は、予想より遥かに若い顔だった。

 恐らく、若きザハティと同じぐらいか少し年上。

 レンズの下に薄く見える眸子は決まり悪そうな表情を浮かべている。

「こんな事だったら、漢字も勉強してくるんだったなぁ」

 ぼやくような言葉は、その辺りの青年と大差がない。

「日本語は苦手なんですか?」

「喋るのは何とかなるんですが、どうもこの漢字が…。サカキにも言われていたんですけどね。…あ。勿論、簡単なものは、読めますよ。こういうのとか…」

 指さした先の文字は『お茶』。

「じゃぁ、さっきから、ここに立っていたのって…」

「嫌だなぁ。見ていたんですか。恥ずかしいところを見られちゃったなぁ」

 些か調子に乗って、素朴な疑問を投げつけてみると戯けたような返事が返ってきた。

「お願いですから、サカキには言わないでくださいね。彼に知られたら最後、1年は遊ばれちゃいますから」

「遊ばれるって…。氷弥博士が?」

 想像もできない、といった顔をしたマヤに、クリムゾンはグラスの奥にうっすらと透けて見える片目を閉じる。

「サカキはね。そういうのが好きなんですよ。傍目には、研究一筋に見えますけど」

 さらり、と俄には信じがたいことを言って、クリムゾンは、また、笑った。

「彼の分厚い『壁』を突破した者だけが受け取れる、迷惑な権利ですけどね」










 レイを面食いに育てたつもりはないけれど、これはあまりにも嵌りすぎている。



 リツコの感想は、その一言に尽きた。

 まず目に入るのは、烈女と言われる母親とは似てもにつかぬ優しげな顔立ち。

 東洋系の造作は、本国でさぞかし騒がれているのだろうと容易に推測できる。

 そして、如何にも良家の子息らしい洗練された穏やかな立ち振る舞い。

 唯一、難があるとすれば、背中に流れ落ちる長すぎる髪ぐらいだが、それすらも一見大雑把に見えて、その実、決して不潔には見えないよう細心の注意を払って一括りにされていた。

 『見られる』事を覚悟した人間である、という事なのだろう。

 衆目に晒される事を知っているからこそ、彼は敢えて身の回りに気を遣っている。



 試しに何気ない話題を振ってみても、浮かんでくるのは同じ印象。

 一筋縄ではいかない難物、と過日の印象から分かっていても、つい誤魔化されてしまいそうになる。

 ある程度の予備知識があるリツコでもそうなのだから、全くの初対面だったレイであればひとたまりもなかった事だろう。

 ただ、率のないように見える会話の端に垣間見える若さだけが、彼の本来の年齢を密やかに語っているようで。

 他人との間に一定の距離を置く事を知る用心深さと、場合によっては自分さえも効果的に演出する狡猾さの間で、奇妙なアンバランスさを醸し出している。

 経験不足故か。今は、多少あらが目立つようだが、後10年もすれば煮ても焼いても喰えない人格が完成する事は想像に易い。

 言わば、未完成の青鸞ブランド。

 入念な計画の元、莫大な投資をつぎ込まれ続けている彼がこれから先、どう化けていくのか。

 それを『成長』と言うのか、それとも、『製作』と言うのか。

 彼を育てた者達であれば、どう表現するのだろうか。

 非常に興味深い。

「…面白いわね…」

「え?」

「いえ。何でもないわ。それで、氷弥博士はいつから本作業に加わるのかしら?」

 思わず漏れてしまった呟きを誤魔化すように。

 同時に、気付かれないように息を整える。

「状況によりますが、予備調査の終了に前後して、という事になりそうです。端末が組み上がらないと仕事になりませんから…」

「ああ。例のシステム。そう言えば、回線の確保ができたと報告があったわね」

「ええ。お陰で起動基準をクリアできました。来週の頭にでも試験を行おうかと」

「となると、今週一杯は手が空いている訳ね」

「急なトラブルが無ければ、余裕はあると思いますが。それが、何か?」

 常にギリギリの日程でスケジュールを組んでいる他の工程に比べ、彼の担当する部分はある程度の余裕を見込んで組まれていた。

 それは、彼特有の事情に因るものなのか、それともそれ以外の原因なのかは定かではない。

 が、その僅かな余裕は、天からリツコの元へ降ってきた幸運でもあった。

「そう。では、今日の夕方に時間を空けておいてくれるかしら? 正面玄関に車を回しておくから」

「……………。…はい?」

 小首を傾げた控えめな声音の問い返し。

 それは、理解不可能の事態に最大限に困惑している、という意思表示だと、とリツコはとった。

「簡単な事よ。この国には『郷に入らば郷に従え』という言葉があるの」

 強引且つ一方的な言い様は、敢えて混乱させる意図も含まれていた。

 相手を圧倒する勢いと隙を与えない速攻性。そして、曖昧さを許さず言質を取ってしまうだけの強引な理論展開。

 親友の最も得意とするやり方は、入念に計画を立てた上で相手の退路を全て塞ぐやり方を好むリツコのスタイルではなかったが、背に腹は代えられない。

「あの…。…仰っている意味が分からないのですが」

「言葉通りの意味よ。この国には、ビジネスだけでは済まされない『つきあい』というものがあるの。貴方はこの国に来て日が浅いから、ご存じないだろうけど」

「…そうなんですか?」

「そうなの」

 予想通りのかなり不審気な視線をきっぱりとはねのけて、さも根拠のある事であるようにリツコは振る舞った。

 逸らすことなく視線を真っ直ぐに固定し、その薄い色の眸子を視界の中央に入れる。

 挑発めいた視線はそれだけリツコが追いつめられている証。

 元より絶対の勝利を確信して彼を招いたのではない。

 が、ここで引き下がれば、最初の一歩から躓くどころか、この先、接触する機会すら失われかねない。

 このたった数十分の時間を得るためにどれだけの努力を要したか。

 リツコとて暇な訳ではないのだ。

 また、身近に個人護衛を離さず、常に派遣技師達に囲まれている彼には、元よりプライヴェートに費やす時間なぞあろう訳もなく。

 硬い意志の元に一瞬の空白を見いだすまでは、一片の接点すら見いだすことが出来なかった。



 時が、澱む。

 テーブルの下に隠した掌がじっとりと汗ばんだ頃、漸くサカキは目を逸らした。

 ふ。と息苦しさが消えるのを感じて、初めてリツコは異形の眸子が目に見えない圧力を持っていた事を知った。

 瞳孔に近づくにつれ、濃い色に変化する虹彩のグラデーション。

 虹彩と瞳孔の境目がぼやけて見える独特の色合いのせいで、表情から彼の感情の起伏を知ることは酷く難しい。

 だから、彼の反応を観察するには、ちょっとした仕草や微妙な表情筋の動きを注視するしかない。

 リツコ自身そのつもりで、自分の正面に座らせ客観的な視点で彼の観察を続けていたつもりなのだが。

 いつの間にか、引き込まれてしまっていた自分に気付いて臍を噛む。

 この世にはどうしようもなく人目を惹く人種がいる。

 二度と思い出したくない記憶の中の男のように。

 欠片も似ていないはずなのに、何故思い出してしまったのか。

 戸惑った瞬間、耳に滑り込んできた声が、リツコの思考を現実に引き戻した。

「…つまりは、その……職場とは異なる環境で友好を深めたい、という事と理解して宜しいのでしょうか?」

「…端的に言えばそうなるわね」

「そうですか」

 一拍遅れて返答を返すと、サカキは何とも言えない微妙な表情を浮かべた。

 簡潔な相槌の後に、微かに眉間に皺を寄せて、リツコの肩の向こうを見やる。

 困惑しているのか、それとも不審に思っているのか、判別の着かない表情。

 再び、居心地の悪い沈黙が落ちてきた。



 やりにくい。



 相手の手札が見えない。

 返答は彼の意思次第で、その後の対応も彼の態度一つだ。

 リツコは、再び掌に汗の感触を意識する。

 追い込んだつもりが、見事に追い込まれてしまった。

 八方ふさがりとはこういう事をいうのかもしれない。と表情に出さずに、突破口を模索していると、ふいにサカキの視線が戻ってきた。

 眉間の皺が消える。

 そして、小さな溜め息がその口から漏れた。

「…分かりました。一般業務終了後で宜しければ。ただ、守秘義務に係るご質問については、お答えできかねますが…」

「そんな堅苦しいものじゃないわ。食事をして、そうね…雑談、といった所かしら。貴方、お酒は大丈夫?」

「ええ。少しは嗜む方ですが」

「良かった。日本酒は飲めて?」

「嫌い、ではないです。………寧ろ、好き…かな?」

 最後にぽつりと漏れた確かめるような独り言をリツコは聞き逃さなかった。

「良かった。貰い物があって処分に困っていたのよ。銘品らしいのだけど、私には味は分からないから」

「僕も、そう大して分かる方では…。母の晩酌につき合っている程度ですから」

「良いのよ。多少でも味の分かる人に飲んでもらった方が、お酒も喜ぶわ」

「でしたら、喜んで」

 にこり、とサカキは微笑む。

「そう。ありがとう」

 自然に、礼の言葉が出た。

 それまでの何処か余所余所しい笑みではなく、リツコ自身の生地の微笑と一緒に。

 意識もせずそれを浮かべたリツコに、サカキは少し驚いたような表情を浮かべる。

「なにかしら」

「いえ、赤木博士もそんな顔をされるんだな、と」

 穏やかな、それでいて感慨深げな響き。

 此処ではない遠くを見つめるような視線は、リツコを誰かに重ねているのだろうか。

 言葉とは裏腹な切なげな仕草は、その記憶が彼にとって決して良い思い出ではなかった事を鮮明に伝えている。

「お世辞を言っても何も出ないわよ」

「お世辞ではないです。そういう表情の出来る人に、本当に悪い人はいないですから…」

「あら。おばさんを誉めても本当に何も出ないわよ」

 茶化すように、その場の雰囲気を誤魔化す事しかリツコには出来なかった。

 深く問いつめようにも、問いつめられない重い何かを背負っている様な気がして。

 そう言えば、レイとの出会いも、言葉を濁してはいたが誰かの弔いの為の寄り道の途中での事だったらしい。

 多分、彼は彼なりに見えない苦労を重ねているのだろう。

 名のある家の生まれ故の辛労というのは、リツコには想像すらつかないものだったが。

 確かに、彼は心の痛みを知っている。

 それがリツコの望む「他人の痛みをおもんばかれる人間」である事の証明であるかというと、又疑問ではあるのだが。

 だが、それだけでも、彼が血の通った人間である、という確かな証左ではある。



 逢わせても、かまわないのかもしれない。



 完璧な人間などいない。

 人は元より造物主にすら見捨てられた不完全極まりない存在なのだから。

 完全を求めすぎれば、いつか別の場所に綻びが現れる。

 あの夢見る老人達が犯した過ちの様に。



 ならば。



「氷弥博士」

「なんでしょうか?」

 黄昏時の、凪いだ湖面の様な眸子に、もう、恐怖は感じなかった。

「会ってもらいたい子がいるのよ」

 何かが吹っ切れた穏やかな気分でリツコは口を開く。

 応じる彼の表情に、一瞬だけ、微かな色彩が通り過ぎた事に気付かないまま。



 それは言葉にすれば、『痛み』としか表現のしようのないもの、だった。










2022年3月25日 第三新東京市 郊外


「一体アンタ、こんな所で何やってるのよっ!」

「加持さん?」

「よぉ。お二人さん。綺麗所が二人揃って一体どうしたんだい?」

 バツの悪い笑みを浮かべて、男が柱の影から現れる。

 例の如く、皺まみれのシャツとよれよれのネクタイ。それと、止めのように肩に引っかけた毛羽立った安物のジャケットは、レイにとって見慣れた加持の格好だった。

 私生活はともかく、外に出るときは一分の隙もないミサトとはとてつもない落差だが、こうやって2人並んでいると奇妙なぐらい噛み合った雰囲気がある。

「まぁまぁ、綺麗な顔が台無しだぜ。葛城。レイちゃんも良い顔してるなぁ。いい人でもできたのかい?」

 掴みかかろうとするミサトをひょいひょいと器用に避けて、レイに向けてウィンクをひとつ。

 レイの頬にぽっと淡い色が載って、ははん、と加持の目が眇められる。

 その僅かな隙をミサトのバッグが狙った。

 完璧なタイミングと確実に死角を突いた角度は、元軍属の意地か、それとも不埒な男への天誅か。

 打ちっ放しのコンクリートの柱が立ち並ぶ空洞に響いたうなりと破壊音は、そのえげつないほど容赦のないミサトの力加減を表していた。

 声もなく、レイが青ざめる。

 そして、勝利の笑みを浮かべていたミサトは、その一瞬後には、もう元の不機嫌な顔に戻っていた。

「いたいなぁ。葛城、何もそんな物騒な凶器で殴らなくても…」

「ちょこまか逃げ回るアンタの方が悪いのよっ! 全くっ! 肝心な時にはいなくて、いらない時ばーっかり、ちょろちょろすんだからっ!!」

 金属製のブランドマークと装飾用の大きな留め金のついた本革製のバッグは、言うまでもなく、重い。

 しかもミサトのバッグは特別製で、中身も通常では考えられないものまでが入ってる為、とてもではないが、他人に持たせられるようなものではないのだ。

 そんな物を頬に喰らって、なおへらへらと出来るのは、最後の最後、ぎりぎりの位置で加持が避けきった、という事で。

 それで、また、ミサトの機嫌は悪くなる。

 どうやっても勝てない男の背中に縋るしかない自分が歯がゆくて。



「で。敵前逃亡バカが一体何の用なのよっ!!」

「あ…あの。喧嘩は良くない……と……」

 第二ラウンドをやる気満々のミサトと、しょうがないなぁ、といった顔をした加持の間に、レイが割って入った。

 おどおどとした声と半分泣きそうな顔は、本気で怯えているように見える。

 そこで、ミサトは激昂のあまり完全に忘れかかっていた、同行者の事を思い出した。

 リツコやマヤであれば、「無様ね」「無様ですねぇ」と苦笑して切って落とす苛烈なコミュニケーションは、暴力を嫌うレイには刺激がきつい。

 こんな所にも、レイのお嬢様育ちが顔を覗かせているようで、心中で溜め息をついて、ミサトは拳を引っ込めた。

 尤も、さりげなく肩に回そうとした加持の手を思いっきり抓り上げることは忘れていなかったが。

「いてっ。捻り上げる事はないじゃないか」

「面の皮が厚いんだから、手の皮だって厚いんでしょっ。 此処にいるって事は、リツコに会いに来たわけ?」

「姉さんだったら、まだ、仕事だと思います。最近、ちょっと遅いから…」

「ああ。忙しいのは分かってるさ。ついでに、レイちゃんの美味しいお茶でもごちそうになろうと思ってね」

「アンタね〜。いい年して、女子大生にコナかけんじゃないわよっ。アンタみたいな甲斐性なしが、声かけていい子じゃないんだからねっ。それに、この時間だったらお茶じゃなくって、夕食でしょ。夕食っ」

「おいおい。葛城。飯までたかる気か? その内、リッちゃんから食費の請求が来るぞ」

 少しだけ過ぎった暗い光に、目敏く気付いた加持とミサトは、恰も、息のあったどつき漫才の如くボケと突っ込みを始める。

 お世辞か本心か定かでない加持と相手の揚げ足を取って突っ込むミサト。

 事情を知っているミサトと分からないまでも、ある程度は察してしまった加持と。

 絶妙のコンビネーションは、やはり、長年のつきあいのお陰なのだろう。

 この2人のつきあいがどれくらいになるのかレイは知らないけれど。

 だが、こんな風に罵りあいながらも、それを楽しむ男女の関係というのもあるのだ、と、ふと思い当たってレイは赤面した。



 私とサカキさんがおつきあいをしたら、どんな感じになるのだろう。



 少なくとも、こんな賑やかな関係にはなりようがないと思うけど。

 あくまでもレイの許容範囲内でどつき合いを始めた2人を見上げて、少しだけ笑う。

 リツコが帰って来てしまえば、一体どんな話になってしまうのか、想像もつかないが。



 とにかく、サカキさんに会っても良いって言ってもらって。



 レイには、まだ、その先を考える余裕は、ない。

 覚悟を決めた、とはいえ、リツコは余りにも高い壁だった。



「じゃぁ、レイちゃんお邪魔させてもらえるかい? ああ。女の子にその大荷物は似合わないな」

 レイの思考を断ち切るように、どうにか折り合いをつけた加持はひょいと、買い物袋を取り上げる。

「じゃ。私はこっちね」

 すかさず、反対側からミサトが学生鞄を取り上げ、勝手知ったるエレベーターホールにさっさと向かった。

 すっかり夕食を食べていく気になっているらしい。

 もう一度、しょうがないなぁ、と苦笑して加持も続く。

「悪いな。レイちゃん。余り飲ませないようにするから、な」

 ミサトに見えないように小器用にウィンクするのは、それなりに悪いと思っているからか。

 それに遅れないように小走りになって後を追いかけるレイは、少しだけ気分が楽になったような気がしていた。



 何が起こるか分からない。



 でも、けれど、決して諦める事だけはしたくなかった。










「夕食の用意をしてきますから。ごゆっくりしててくださいね」

 テーブルに銀の紅茶のポットと瀟洒なティーカップを2客おいて、レイは台所に入っていく。

 急に増えてしまった来客に対応すべく、メニューの組み立てを考え直すつもりだ、と言っていた。

 笑顔の中でも、眉間に微かな皺を寄せているのは、この難事業をどうやって完遂すべきか、と考えている為なのか。

 そんな所ばかりがリツコに似てきたと、以前マヤがぼやいていたのをミサトは思い出した。

 実は、同じ癖をマヤも持っているのだが、そんな事はおかまいなしらしい。

 だが、今は、そんな生活チェックより、目の前の男だ。

 糸の切れた凧のようなこの男は、今逢えたからといって、次に逢えるとは限らない。

 だから、逢えた時には一撃必殺。ミサトは持っているだけの情報を引き出しておく事にしていた。

「で、アンタがわざわざ来たって事は、何か進展があったって事よね」

 やはり勝手知ったる来客用ソファにどっかり座り込んだミサトは、そのレイが台所に引っ込むのを確認した上で、口を開いた。

「鋭いな。全く。…で、お前がわざわざレイちゃんを送ってきたって事は、何かあるんだろう?」

「偶然よ。あの子、ちょっと厄介な事に首を突っ込んでてね。見てられなかったから」

「ふぅん。色恋絡みか?」

「…なっ! 何で分かるのよっ!!」

「聞こえるぞ。聞かれたくないんだろう?」

「…あっ。…何で分かるのよっ」

 今度は小声で、それでも、胸ぐらを掴まんばかりの勢いでミサトは詰問する。

「そりゃぁ。分かる。恋をすると、女の子は可愛くなるって、な。…となると、リッちゃんがいい顔をしないのは当然だろうし…。だから、お前がしゃしゃり出てきた。違うか?葛城」

「…アンタねぇ…」

 ミサトの正面に同じようにどっかりと座り込み、顔の前に組んだ指を透かして、加持はにやりと笑った。

 僅かな情報と自分の眼で見た観察結果を元に推論を組み上げるのは、加持の得意技だ。

 独特の勘と経験に基づいた結論は、大抵において的を外すことはなく、後はそれを『事実』に昇格させるだけの傍証を探し当てるだけで良い。

 まず、『答え』ありき。

 そういう意味では、思考をセンスと動物的勘に頼っているミサトと似たり寄ったりなのだが、加持の方が理由を提示できる分、高尚とも言えた。

 それだけ、言い訳が効かない、という面もあるのだが。



「で、厄介ってのは? レイちゃん、あれで臆病だからなぁ。リッちゃんとやり合うとなると、よっぽどの事か?」

「そうなのよ…。よりによって、よ」

 数日前、リツコが言ったのと同じ言葉を溜め息混じりにミサトは呟く。

 それは、ミサト自身がレイを焚き付けた時ほど、物事を楽観していない、という事で。

 あの時はその場の勢いもあって、簡単に成就するような事を言ってしまったが、実際に実行に移すとなると、かなり問題が残っている、というのも事実なのだ。

 レイの置かれている状況と相手の周囲を取り巻く環境、そして、何より当人同士の男と女の感情の機微、となると、リツコは疎かマヤですらお手上げとなることは目に見えている。



 まぁ、こんな古漬たくあんに言っても、しょうがないけどねぇ…。



 左手薬指のリングを撫でながら、ミサトは思案する。

 ミサトにしても、所詮、女は女。『男』という川向こうの生き物の感情が分かるわけもない。



 相手が相手だしねぇ。味方は増やしておいた方が、良い、か。



「誰なんだ?」

 興味津々といった顔で、加持が先を促した。

 いつの世でも、他人の恋愛沙汰ほど面白い話題はない、そんな顔をして。

「…ザハティよ。アンタが片思いして追っかけてるお坊ちゃんに、一目惚れしちゃったみたいで、ね」

「おい。そりゃぁ…」

「ストップ。だぁかぁらぁ、リツコも良い顔しないし、アタシだって聞いた途端、血の気が引いたわよ」

 何か言いかけた加持の口元に手で蓋をして、ミサトはもう一度溜め息を吐く。

「祟るわよねぇ。全く」

「本当に祟るな。来るときは一気呵成ときたもんだ」

 二人してげんなりした顔が似ているのは、あながち長いつきあいのせいだけではないのかもしれなかった。



「で。アンタの方はどうなってるのよ。この1週間、何してたわけ」

「ちょっと、香港経由で京都まで、だな。言っとくが、土産はないぞ。日帰りだからな」

「香港って、アンタ…」

                      レイ
「お陰でなかなか興味深いものが見つかったよ。李の爺さんが面白い物を持っていた」

「坊ちゃん追いかけて、香港まで? なんの関係があるのよ。それに李ってあの『李』なわけ?」

「あれだけの組織だからな、当然、出資者もあちこちにいるさ。あそこもそのひとつで、つついたら興味深い話を幾つか聞かせてくれたよ」

 さらりと言ってのけた加持に、ミサトは目を丸くした。

 レイ・ユンフー
 李玄虎。もしくは、マイケル・李。
     Hongkong Black Tiger
 かつて『香港の玄い虎』と呼ばれた男は、香港を基盤とする企業集団の長であり、サードインパクト時に加持の依頼を受け、国連を動かした大物だった。

 加持とはその頃からのつきあいで、現在でも親交があるとは聞いていたが、まさか最初からその奥の手を惜しげもなく使うとは。



 驚きが隠せぬミサトの前で、加持は胸元から四つ折りにした1枚の紙を取り出す。

 前置きは一切ない。

 本気になればなるほど、直截に貫いてくる性格は昔と全く変わりがなかった。

「こいつは1998年に撮られた物だ。ここに映ってるのは誰だと思う?」

 テーブルの上に広げられた紙は、写真を複写したものらしい。

 粒子の粗い画像の中に中央に若き日の青鸞女帝と件の李玄虎。周囲に、現在でも青鸞の第一線で活動しているロビイストや研究者と見られる数人の男女が写っている。

 全員が正装したこの写真は、恐らく何かの宴席で撮られたものなのだろう。その背後には、庭園を透かして、水没以前の香港の景色が広がっていた。



 そして、加持が指で示した左隅。

「これって…っ!」

 視界に入れたミサトは息をのんだ。

 恐ろしいほどに良く似ている。

 髪の長さこそ違うが、当地風のマオカラーの衣装を纏った体格も、穏やかな風貌と口元に浮かぶ薄い笑みも。

「勿論本人じゃない。氷弥シヅル。恐らく、実の父親、と思われる人物さ」

 本人はまだ生まれてもないからな。と続けられて、ミサトは写真をまじまじと見つめた。

「それと、もう1枚。これは京都のとある私立高校の卒業写真集から写してきた物なんだが…」

 加持は香港の写真の上に、もう1枚、一回り大きな紙を重ねる。

 印刷物からの複写品らしく、さらに荒い画像のそれは、クラス別の生徒の一覧写真らしい。見開きに整然と並ぶ楕円形の枠の中に一人一人が収まって、その下に名前が書かれていた。

 ミサトは今度は直ぐに目当ての人物を見つける。

 周りの生徒達と同じチェック柄のジャケットを着て鹿爪らしい顔をしてはいるが、彼等とはどこか違う雰囲気を持つ少年。

 後の成長を思わせる面立ちは、色濃く誰かの面影を残している。

 何処かで出会ったような既視感に襲われ、ミサトは目を眇めた。

「問題は、その下だ。何て書いてある?」

 示されるままに名を読んで、ミサトはその感覚の由縁に気がついた。

「…碇…シヅル…」

「気になって京都市の戸籍除票をあたってみたよ。1975年京都市生まれ、1997年アメリカ合衆国移住につき、日本国籍破棄。それまでの家族構成は、父、碇ヨシズミ。母、碇アヤノ。そして…」

「妹、碇ユイ…ね。まさか、彼って…」

「恐らく間違いないだろう。血縁上で言えば、氷弥シヅル氏はシンジ君の実の叔父。そして、ザハティ博士本人はシンジ君の従兄弟にあたる関係にあるはずだ」

「…そんな事って…っ」



 どうして今になってその名前が出てくるのだ。



 あの時、少年少女達の帰還が決定的に不可能だと知った時、ミサトは狂ったように彼等の身内を捜した。

 だが、類を畏れたのか、それとも本当にいなかったのか、結局、名乗り出る者は一人として無く。

 かつてシンジを養育していた六分儀側の身内でさえ、彼の遺品の引き取りを拒否した。

 そして、少年少女達の墓は、納めるもののないまま、共同墓地の片隅に建てられた。

 あの混乱で命を落とす事となった、身元すら分からない多くの人々と同じように。



 ミサトは奥歯を喰い締めて、写真を握りつぶす。

 そして、それに追い打ちをかけるように、加持はもう一つ、ミサトを抉る材料を用意していた。



 加持の目に僅かな躊躇が過ぎる。

 言おうか言うまいか。

 そんな顔をした加持は、それでも、何かを振り切るように口を開いた。

「それでな、葛城。もう一つ、シンジ君の事で、興味深い事実が出てきたんだが」

「…今度は何よ…」

 疲れ果てたようにミサトは、片手で顔を覆って、写真をテーブルの上に放り投げる。

 それでも、制止はしない。

 まるで、知ることだけが彼女の義務であるかのように。

 加持はその写真を元あったように四つに畳んでシャツの内ポケットにしまい、少し言いにくそうに言葉を繋いだ。

「家裁の記録にあったんだが、碇ユイの死後、シンジ君の親権についての訴訟が起こっている。…被告は碇ゲンドウ、原告は氷弥ミヅキ。結果は、家裁では棄却。その後、最高裁まで控訴を繰り返して、結局は門前払いで敗訴。まぁ、当然の事なんだが。親権の抹消は、余程の事がないとできない事になってるし…」

 碇氏は精神的なケアはともかく養育費を欠かす事はなかったからな、と加持が続けるのを、ミサトは呆然と聞いていた。

 またもや『氷弥』。まるで呪文のようにシンジの周りに絡みつく名は、何か不吉な符号のようで。

 思わず表情を強張らせたミサトを見ぬ振りをして、加持は言い訳のように、更に続きを語る。

「氷弥ミヅキ、ってのは、氷弥シヅルの婚約者だった人物だ。理由は分からないが、シヅル氏は渡米以後、氷弥の名で青鸞に在籍していた。
    ターレン
それと、大人が言っていたよ。『あの時、どんなリスクを犯してでも、あの少年から碇を引き離しておくべきだった』ってな」

 加持の口振りから察するに、同時進行で水面下でも『氷弥』対『碇』の激しい折衝が行われただろう事は、想像に易い。

 そして、その綱引きが当時のゲヒルン、引いてはSEELEを後ろ盾とした碇ゲンドウの勝利に終わった事も。

 結果、最も強力な手だてを使わぬまま氷弥は一敗馳にまみれ、少年は最初にして最大最後の庇護を知らぬままに失った。

 考えてみれば、惨い話だ。

 結局、全てが『大人の事情』によって動かされ、全てのシナリオが最悪の終末に向けて突き進んだ。

 誰もそんな決着の着き方なんて望んではいなかったのに。



 加持は徐にティーカップを手に取る。

 それは現段階で語れる事は全て語った、という言外の言葉で。

「…そして、今になって、シヅル氏の実子と思われるザハティ博士がこの第三新東京市にやってきたって事ね」

「ああ。今のところ、派遣技師として以外は、何もやっちゃいないけどな」

「…遅すぎるわよ…。何もかも…。今更来たって、この街にはもう何も残ってやしないのに…」

「確かにな。だが、俺は彼が本当に何も知らずに、この街に来たとは思えないんだ」

 ぽつり、と呟いたミサトに、加持は頬の傷に触れながら答える。

 ミサトは、加持が何時その傷を負ったのか覚えていない。

 ただ、いつ頃からか、加持は考え事をする時にその傷跡に触れるようになった。

 それが、彼の中で、まだ謎の全てが解明された訳ではないという事の証のように。



「アンタでもまだ分からないのね」

「世の中、分からないことだらけだ。だが、分かろうと努力する姿勢に価値があるのさ」

 薄く笑って加持は、冷め切った紅茶を一気に煽る。

 空になったカップに継ぎ足しの紅茶を注いでいると、台所から微かな良い香りが漂ってきた。

 今頃、問題の当事者は神妙な顔をして鍋をかき回しているのだろう。

 氷弥、碇、青鸞、そして旧NERV。

 レイをその端において、蜘蛛の巣のように糸が縦横無尽に絡み合った図形は、その輪郭すら未だ見えない。

 考えれば考えるほど、疑問点は増えてゆく。

 初めての派遣がこの国である事すら、彼にとって何か意味があるのだろうか。

 ある程度の事情を知っている筈の青鸞上層部は、何故それを許したのか。

 彼は何を想って、この国に来たのだろうか。

 父親が捨て去った嘗ての母国、血族が薄倖の運命に弄ばれ命を落とした街。

 その街の束の間の住人となって、彼は何を想っているのだろうか。

 そして、知っているのだろうか。自分が出会った少女がその悲劇に深く関わっていた事を。

 所詮他人のミサトが考えても、分かる訳のない疑問だ。

 『沈黙の琥珀』はその名の通り、ただ沈黙を守り続けている。



「…彼、シンジ君と同い年だったっけ? シンジ君が生きていれば、あんな風になったのかしら?」

 ふとした思いつきを、ミサトは一人語りのように呟く。

 高校生のシヅルはシンジと共通する面立ちを持っていた。そして、サカキは20代のシヅルと双子と言って良いほど似ている。

「さぁな。そればかりは、遺伝子にでも直接聞いてみなきゃ分からないな。逆を言えば、少年時代の博士がシンジ君に似ていた、ってのは考えられるかもしれないが」

「会わせてあげたかったわね…。もしかすると、本当の家族になれたかもしれなかったのに…」

「ああ…」

 それきり、沈黙が落ちる。

 『家族』になれなかった女と未だ『家族』である事を躊躇う男にとって、それは儚い夢想でしかない。

 けれど、『あり得たかもしれない良き未来』の存在は、少年の境遇の悲哀を一層深めた。

 同じ年に生まれ、同じ血を引き、似たような容貌を持ちながら、どうして人生の道はこれ程分かたれてしまったのか。

「苦いな…」

 茶を一口含んだ加持が、小さな声で言った。

 ミサトも自分の茶を口に含んで、顔を顰める。

 出過ぎた紅茶は酷く苦く。

 それはミサトに、『現実』に味があれば、同じくらいに苦いのだろう、と思わせた。










 暫く続いた沈黙は、出し抜けに響いたインターフォンの呼び出し音で中断された。

「はい 姉さん? お帰りなさい。今開けるから」

 台所の方からレイの声が響いて、ミサトは慌てて居住まいを直した。

 さりげなくカップを持って、既に『何て事ない話をしていた』とアピールしている加持とミサトは、同時に台所の方を見やる。

 レイは困ったような顔をして、丁度ダイニングに繋がる扉を開けた所で。

「姉さんが帰ってきました。それで、研究所のお客様を連れてるみたいで…」

「ありゃぁ。そりゃタイミングが悪かったなぁ」

「今まで、こんな事なんて無かったんですけど…」

 口ごもってしまうのは、本当に滅多にない事だからだ。

 リツコは自宅に人を上げる事を好まない性格であるし、レイはレイで、そんなリツコに遠慮をしているのか、やはり友人を呼ぶことがない。

 来ると言えば、押し掛け同然にやってくるミサトか加持。そして、どう見ても界壁越しに同居しているとしか思えないマヤぐらいなもので。

「まぁ、しょうがないな。葛城。今日は諦めろ。飯は俺が奢ってやるからさ」

「しょうがないわね。レイ、また今度ごちそうになるわ」

「すいません」

 本当に申し分けない顔をして、少し恨めしそうな顔をしているミサトにレイは頭を下げる。

 と、せっつくように、もう一度インターホンが鳴った。

「っ、ごめんなさい。…今、開けるから」

 慌てて、玄関に向かったレイは、ロックを解除して扉をあける。

 いつもの癖で半分だけ扉を開いたレイの前に、朝見送った姿と同じ格好のリツコが現れた。

 だが、どこか違う。

 その原因が何か分からぬまま、レイはリツコを迎え入れようと、扉をさらに押し開ける。

「おかえりなさい…」

 数日来の確執が響いて、今日も言葉が出なかった。



 その表情に、リツコは心の中で溜め息を吐く。

 悪い印象にならなければ、良いのだけど。と背後を気にしながら。

 そして、玄関に半分だけ身体を入れて、玄関に転がっている物体を見つけ、更にその嘆息を深くした。

 存在を主張するように脱ぎ散らかされた派手なピンヒールとひっそりと隅に置かれているくたびれた革靴。

 持ち主は、聞かずとも分かる。

「ただいま。…ミサトと加持君が来てるの?」

 僅かに不機嫌さが混じった声は、招かれざる客を歓迎していない響きがあった。

「もう帰るって言ってるから…」

 その気配を敏感に感じ取り、言い訳じみてしまったレイの声に若い男の声が被さった。

「ご来客ですか? でしたら、僕の方が遠慮させていただいた方が良いのでは。お邪魔しても悪いですし…」

 レイはバネ仕掛けの人形のように顔を上げる。

「うそっ」

 リツコは悪戯っぽく笑った。

 そして、身体を捻って、広く扉を開け、背後に宥めるような声音で声をかけた。

「いいのよ。彼等は私が招いたわけじゃないから、本来の賓客である貴方を優先するのは当然の事だわ」

「……分かりました」

 何処か観念したような声と伴に、リツコの背後から長身の影が現れる。

 違えようもない。



「ようこそ、氷弥博士、我が赤木家へ。歓迎いたしますわ」

「お邪魔します。……まさか、赤木博士のご家族だとは思いませんでした」

 リツコに一礼をしてから、レイに向けられる変わらない、声。

 その声も姿も、レイが絶対に忘れたくなかったものだ。

 夢でも幻でもなく、レイが会いたいと願った彼は、現実に此処にあった。






「こんばんわ。綾波さん。また、お会いしましたね」

「…………サカキさん」






 それが、彼等の2度目の邂逅だった。










2022年3月26日 太平洋往復定期旅客機 機内


 ぽん、と赤いランプが点灯して、客席内の何処からでも見えるシートベルトのサインが点滅した。

 窓から見える景色は、見飽きてしまった空と海の微妙に違う青のグラデーション。

 それでも、海の色が、少しだけ薄くなったのは陸地の近づいている証拠か。

 まずは英語で、次に入国する国の言語で説明される着陸時の注意事項や天気情報を聞き流しながら、少女はぼんやりと、そんな事を考えていた。

 この旅は、彼女にとって初めてのマス・トラフィック・ラインを利用した旅。

 予算の都合で仕方なく選択した十数時間に渡るエコノミー待遇の旅は、彼女が想像していた以上に過酷で。



 こんなにも疲れるものだとは考えてもみなかった、と思っても、持ち前の勝ち気な性格が、それを口に出すことを許さない。

 結果、疲れ果てた顔を無理矢理付いてきた同行者に見せたくなくて、少女は日付変更線を越えた辺りから、憮然とした表情を通していた。

「お嬢様、御髪の方はいかが致しましょうか?」

「着いてからでいいわ。どうせシートベルトが出ちゃったし」

 背に流れる豪奢な金髪を乱暴に纏めて、少女は背を堅いシートに押しつけて目を閉じた。



 声を掛けた女は、それを会話を拒否する意志ととって再び黙り込む。

 労しげな視線だけを向けて。



 無理もない、と思う。



 ここに至るまで、少女はどれだけの労力を費やした事か。

 誰の庇護もなく長旅に挑む事も初めてなら、その手配の全てを少女自身の手でした事も初めて。

 けれど、貨物室に鎮座する大きなトランクが、少女が立てた入念な計画を十分に証明していて。

 大胆にして繊細な計画と卓越した行動力。そして、その常識外れな行動の原因となった、周囲から見れば些細な、それでも、本人から見ればとてつもなく大きな、理由。

 そのアンバランスさが、大人でも子供でもない少女の微妙な精神を現しているようで、女は密やかに溜め息を吐いた。



 ……全く。

 言い出したら聞かないから。



 愚痴めいた事を思って、その淡い色の眸子は、何処か優しく少女を見守る。

 だが、何時までもこうして愛でているわけにはいかない。



「お嬢様。到着後のご予定はいかがされているのでしょうか?」

 その所在を見失って1時間。搭乗直前に空港で捕まえた為、この後の行動については全く知らないと言って良い。

 結果的に共犯者になってしまった女は、終局の目標は悟ってはいても、その過程が如何なるものかを知らなかった。



「…ないわよ」

「はい?」

「『ない』って言ったの。まさかアンタが追いつくとは思わなかったから、飛行機の中でゆっくり考えようと思ってたのよ」

 拗ねたような表情でされたそれは、明確な敗北宣言。

 『小女帝』と仲間内で呼ばれるこの少女が、家族と世話役の女にのみ見せる本当の顔だ。



 ああ。だから、機嫌が悪かったのだ。

 と、女は漸く理解した。

 絶対の自信を以て敢行した大計画が粉砕された衝撃は、本人が思っていた以上に大きかったらしい。

 特に最も裏をかきたかった者に見破られた、とあった日には、少女の高いプライドが許さなかったのだろう。

「責任取んなさいよ。お陰で、計画が滅茶苦茶だわ」

 ふてくされたような顔をして、言いたいことだけ言った少女は、ぷいと窓の外を向く。

 その様を苦笑したような顔で見て、女は急いで行動を纏めた。

「まず、坊ちゃまにご連絡を差し上げて、お迎えに来ていただくのが宜しいか、と。…ああ、ついでに宿の手配もお願いすれば、手間が省けますわね」

「お兄ちゃんは仕事で行ってるのよ? そんな暇あるわけないじゃない?」

「お嬢様。お言葉ですが、そのお仕事の事を一言も仰らずに、お出かけになったのは坊っちゃまです。その責任はご自身に取っていただくのが、妥当ではないかと」

「それは、そうだけど」

 女は振り向いた少女の反論を、間髪を入れずに封じ込める。

 それは、女の本音だ。

 彼は、今回に限っては、一切何も言わず自宅を出た。

 常には砕きすぎる程心を砕き、いっそ過保護過ぎる程、年の離れた妹に気を遣う彼が、だ。

 それだけでも異例な事であり、そして、知った少女の恐慌ぶりも異常だった。

 元々、感情をあまり人に見せない兄とは違い、少女は起伏の激しい子供ではあった。

 だが、あの、まるで世界が終わってしまったような顔は何だ。

 何もかも無くしてしまったような、絶望という一色の色彩に埋め尽くされた表情は。

 そして、少女はロストし、その一件を知っていたが故に、女はただ一人その目的地の目処をつける事ができた。

 少女が与えられた苦痛の分も、自分の心労の分も、ある程度は返しておかなければ、腹の虫が治まらない。



「…アンタは怒らないのね」

「お考えの末に決断されたのであれば、私如きが叱っても詮無きことでしょう。事の重大さはお嬢様が一番よくご存知の筈ですし、それを圧して為されたのであれば、私から申す言葉はございません。…ただ、閣下と坊っちゃまに対するお言葉だけはお考えあそばした方が良いのでは、と老婆心ながら思います」

「分かってるわよ。そんな事。だから、呼びつけるのはマズい、って言ってるんじゃない」

「でしたら、尚の事、坊っちゃまにご連絡するのが筋かと。今頃は、ご心労の余り、周囲にご迷惑をお掛けしておられるやもしれません」

「…やっぱ。ある? ソレ」

 大仰に顔を顰めて、少女は困惑しきった表情を浮かべる。

 『兄』と『親』という言葉の下に『バカ』という単語を付け加えれば、それはそのまま少女の家族と同義語になる。

 恐らく、既に第一報は手にしている筈だ。となると、こちらから顔を出さない限り、治まりがつかないだろう事は簡単に予測できた。

 兄に勝るとも劣らない聡明な少女であるだけに、やってしまった事に対する思いは、複雑なのだろう。

 かといって、『二度とやらない』、とは決して言わないだろうが。



「では、到着次第、直接ご連絡を差し上げる、という事で宜しいですね」

 念を押すように言う。

 少女は、不承不承の顔で、それでも、こくん、と首を振ることで、その確認に答えた。





 ゆっくりと機体が降下を始める。

 やがて、水平線の果てに陸地が見え始めた。

 蒼と碧の狭間で、次第に大きくなる、ぽつんと蹲る滲んだ黒。





 それは、少女の裡に染みのように残る昏い感情を呼び覚ます色、だった。
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