2019年5月26日 第三新東京市


 からん。

 音を立ててグラスの中の氷がはじける。

 飲み干したグラスは、これで何杯目だろう。


 重ねているのは、胃を焼くようなアルコール。

 けれど、昔の様な心地よい酩酊感が訪れる気配は一向にない。

 酒を飲んで気持ちいいと、最後に思ったのは何時のことだろうか?

 思い出そうとしても、アルコールの霞で煙った頭は上手く働かず。

 只、くり返す波のように益体もない思考だけが頭の中で輪舞を踊る。



 震える手でボトルから酒を注ぎ、女は立て続けに杯を煽る。

 青黒く内に溜まるは、後悔と自身に対する侮蔑。



『ビールは2本までですよ。あまり飲み過ぎると明日辛いのは自分なんですからね?』

『アンタ、アルコールで生きてんじゃないのっ?一体どこにこんなに入ってんのよ』

 小首を傾げ困ったような顔をした少年と、呆れた風情の少女の表情が脳裏を過ぎる。


 永遠に失われた言葉。永遠に失われた時間。

 決して取り戻すことのできないものは、過去という檻の中に。

 家族だと思っていた。

 例え、それが砂の上に立つ幻の楼閣でも。

 幸薄い女が漸く手に入れた安らぎの時だった。



『精一杯生きて、それから死になさい』

 そう言って、女は泣きじゃくる少年を死地に送り出した。

 生きて帰ることを疑わなかったと言えば嘘になる。

 自身の命すら危うい状況の中で、少年と少女が生き残る確率が最も高かっただろう選択。

 自分はその可能性に賭けたのだ、と思っていた。



 何度も望み、何度も引き起こした奇蹟。

 けれど、今回だけは彼の女神が微笑む事はなく。



 永遠に続く夏が終わっても、結局、少年と少女は還って来なかった。



『明日の午後0時をもって、帰還者回収計画は正式に終結することになったわ…。残念だけど』

『そう…』

 親友の淡々とした言葉は、酷く怜悧な刃物の様で、答える自分の声も、酷く冷静だったのを覚えている。

 本物の衝撃は、人間から叫びも涙も奪い去るのだ、と、もう一度思い知った。



 父親を亡くしたあの時の様に。







 からん。



 グラスの中で、溶けかけた氷が崩れる。



 終わってしまった夏。

 けれど、女は未だ灼熱の闇にいる。



 女は、終わることのない夜の中を、未だ疾走り続けていた。









gospel.jpg
written by 叶 京
第3話 夜に彷徨う
yoru ni samayou







2022年3月25日 第二新東京市


「結局、何も分からないって事なのよね…」

 ミサトは書類の束を丸めて、ぴたぴたと机を叩いた。

 その顔は見るからに不機嫌そのもので、目の前に立つ男ならずとも、周りの人間を萎縮させる怒気を放っている。

 乱雑な物が溢れた部屋は、魔境とか魔窟とか、そんな表現がぴたりと当てはまって。

 物を書くのにも苦労しそうな程、雑然と書類や記録メディアが積み上げられた事務机。

 その前の椅子に足を組んで斜めに座っているミサトは、その濃い色のスーツと共相まって、冥府の女王然とした雰囲気を醸し出していた。





「…はぁ、すいません」

 対する男の方も、申し訳ないという態度が有り有りで、悄然と肩を落とす。

「200件当たって全部、スカですね。関連企業のリストも全て当たってみたんですが、こっちも駄目。影も形もありませんでした」

「…手を引いたって事かしらね…」

「多分、そうじゃないかと…」

「…ったくっ。逃げ隠れに関しちゃ、ゴキブリ並よね。あの連中ってばっ!!」

 ますます小さくなった男の言葉に、どうしようもない事とは分かっていても、つい悪態が出てしまう。

 大声を上げられた男は、びくりと首を竦ませた。





 先回りされた事は、明白。

 つい1週間前には、その外資系企業の日本支社に、確かに国際指名手配を受けている旧組織の幹部が出入りしていた。

 それは、他の子飼いの情報屋からも裏を取って、ミサト自身が確認したことだった。

 だが、実際に逮捕の為の内偵をしてみると何も出てこない。

 商号登記簿にも、取り寄せた資産のリストにも、役員名簿にも、最近の事業の展開すら繋がりを匂わせるものは何もなく。

 せっかく用意した捜査令状交付申請も、この分では無用の長物になりそうだった。

 何しろ在籍したという記録さえなのでは、強制家宅捜索も執行のしようがない。

「あ〜も〜。青い鳥のお坊ちゃんだけでも、頭が痛いってのに…」

 実際、青鸞絡みで加持が今の現場を離れたのは痛い。

 性格と行動と倫理規範に数多くの問題を抱えているとはいえ、彼は検挙率だけは有能な捜査官だった。

 彼が独自に持つ怪しげな情報網と突飛な発想は、何だかんだと言っても役には立つのだ。

 あの莫迦がいれば、と思う自分を無理矢理に押し殺して、ミサトは書類を捻る。

 そして、ゴミが溢れて堆く山を為しているダストボックスに投げつけた。





 これで、一体何回目だ?

 まるで誰かに見張られているかのように、目前で手懸かりが消えていく。

 消える人間。消える証拠物件。

 どれもこれもが、最初からそこに存在していなかった様に、痕跡すら残さない。

 元々、苦労の割に実入りの悪い仕事ではあるが、ここ数ヶ月の空振りは異常な件数に上がっていた。

 それが、ああいった組織にありがちな内部の抗争に因るものなのか、それとも、外部からの何らかの干渉によるものなのか。

 現場のミサト達ですら、その原因は分からない。

 見通しのない日々は只苛立ちだけを誘い。

 只、実のない事実だけが積み重なっていき、実績でしか成果を見ない上層部に至っては、いっそ物騒な話題も出るようになった現状。





「守りの体制にでも入っているんでしょうかね?」

 無能な訳ではないが有能な訳でもない。

 そんなレッテルを貼った新参の部下の言葉に、ミサトは大仰に眉を顰める。

「守るものなんて、何もないわよ。あの連中はさ。この世界だっていらないんだし…」

「まぁ、確かにそうですよねぇ…」

「でなきゃ、あんな事なんてできないわよ…」

 地の底から響くような声で、ミサトは吐き捨てるように言った。



 アンタには、分からないだろうけどね。



 つい、出そうになったそんな言葉を、喉の奥に飲み込んで。

 無味乾燥で客観的な情報だけを知っているに過ぎない彼に、この思いが分かる訳もない。

 言っても詮無きことは、言うだけ無駄な労力でしかない。

 それは、経験のない彼のせいではないのだから。

 毒には毒を。或いは、あの地獄を体験した者だけが、真の追跡者であり断罪者となりうる。

 そんな認識の元に設立された組織は、今、大きな岐路に立たされていた。

 時間の経過と共に、国際特捜本部は当初の、旧NERVのBC級戦犯に値する職員の受入機関としての形態を喪いつつある。

 事務方を中心に増えつつある、目の前に立つ彼のようなビジネスライクを旨とする国連派遣の職員が、その証拠で。

 風化しつつあるサードインパクトの記憶はそれを画策した組織の存在すらも、過去という霧の彼方に押しやろうとしていた。

 このままでは、現行体制の維持すら危ういのではないか。

 そんな風評すら囁かれ始めていた。

 だからこそ、目に見える形の実績が必要だというのに。

 未だ、怒れる猟犬の前足は、人類補完委員会を自称した老人の居城に、爪の先すら届いていない。





「ったくっ…」

 机の上に放り出していた幾ばくかのでディスクを取り上げて、ミサトは立ち上がる。

 待っていても埒が空かないのであれば、行動するのみ。

 当てのない答えを待ち続けるよりは、答えを知っていそうな人間に当たった方がマシだ。

 例え、それが、王手寸前の勝負を放り出すという、信じられない阿呆をかました莫迦であっても。

 勝手に逃げた男に頼るのは業腹だが、見る眼を増やせば何か突破口が見つかるかも知れない。

 どちらにせよ、手詰まりであることは確かなのだから。

「あっ、葛城さん何処に行くんですか?」

「第三っ! このまま、他のアプローチを掛けてみて。何か出てきたら連絡を入れてくれればいいからっ」

「ええぇ〜。俺がやるんですかぁ〜?」

 現場人間である事を公言するミサトは、こういった地味な作業には手を出さない。

 その為につけられた部下であると理解していたし、自身が向いてない作業に時間を費やす無駄というものもわかっていた。

 それは元々の性分であると共に、NERV時代の、安全な場所で指示を出すことしかできなかった自身への報復。

 幾度死線をくぐり抜けても、彼女の飢えは治まることはない。

 愚かであることは分かっていても。

 終わりのない疾走を彼女は決してやめるつもりはなかった。

「…アンタの仕事でしょう。給料分はちゃっちゃと働きなさい。私たちは血税で生活しているんだから」

 情けない顔でぶつぶつ言っている男に、出際にぴしゃりと叩き付けてミサトは扉を閉める。



「結局、加持さん頼りなんですよね」

 背後から追いかけてきた、男の腹立ち紛れの呟きを聞かなかったふりをして。





 ふと目に入った傷だらけのリングを外して、床に叩きつけたい衝動に駆られる。

 辛うじて、それを間際で食い止めて、ミサトは半ばまで指から抜いたそれを元の位置に戻した。






 自分は、もう二度と眼を逸らせ逃げる事だけは、しない。

 何を見る事になろうとも、決して後悔は、しない。

 全てが終わる瞬間まで、前だけを見つめ続ける。

 そして、その終末の時を経てこそ、ミサトは漸くこの長い夜を抜け出る事ができる筈だった。







 それまでは、追い続ける今だけが、自分の全て。





 それが、旧NERVにおいて作戦部部長を勤め上げた女の、最後の意地だった。







同日 第三新東京市 商店街


「お買いあげ、ありがとうございました」

 キャッシャーの明るい声に背中を押されて、荷物の入った籠を空いた包装台に乗せる。



 冷凍食品を先にビニール袋に詰めて、重い物から買い物袋の底へ。

 澱みのないのない動きは、それだけ、彼女がその作業に慣れているという事で。

 慣れた手つき、慣れた作業は、最早、頭を使うこともない。



 必要に応じて揃えるようにしている生鮮食品を、細かくメモでまとめて、買い出しに出る。

 勿論、学校というものがあるので、必ず毎日と言うわけではないが。

 それでも、予算の範囲内でできる限り良い物を揃えたいというのが、正直な処だ。

 今日は、鰆の切り身が安かった。

 使い手のある白身の魚は照り焼きか煮付けにでもすれば、最近、さっぱり嗜好に変わってきた姉も喜ぶだろう。



 そうでなくとも、彼女の保護者は、毎日が激務とも言うべき時間に覆われている。

 ストレスも多いだろうし、職場では、食事とてまともにとれない事があるらしい。

 だから、家にいるときは、少しでも心が落ち着くようにしてあげたい。





 例え、それが姉妹喧嘩の真っ最中であっても。





 そこまで、考えてレイは溜め息を吐いた。

 これで、もうどれくらい姉と話をしていないのだろうか。



 指折り数えて、少し驚く。

 今まで、こんな事はなかった。



 最近、新しい仕事に取りかかって、以前にも増して忙しいのは知っている。

 だがあの日以来、毎日顔を合わせていても、話すことといえば、その日の予定がどうとか、明日の弁当はいらないとか、実に事務的な会話を少し出がけにするくらいで。

 いつものような突っ込んだ会話は仕掛けてこない。

 あんな事が起こるまでは、何を考えているのか、とか、その日の体験に対してどう思ったのか、とかしつこいぐらいに聞いてきていたのに。

 何だか気まずいような、戸惑っているような空気が姉の周りに漂っていて、どうにも話しかけづらいような。

 そんな雰囲気のままに、もう3日も経ってしまっていた。



 やはり、あんな事を言ったのは良くなかったのだろうか?



 レイは出会ったあの人に、もう一度会いたいと思って、素直にその気持ちを打ち明けただけなのに。

 名前を言った途端に、姉の顔に溢れた表情は、嫌悪以外の何者でもなかった。





 知り合い、なのだろうか?

 面識のあるなしはともかく、多分、姉が知っている人物であることは間違いないのだろう。

 しかも、姉はその人に決して好意に類する感情を持ってはいない。

 うち明けた時の彼女の最初の言葉は、『その人だけは絶対に駄目よ』という、断固とした拒否で。

 どんなに理由を聞いても、『諦めなさい。貴方が辛いだけなのよ』の一点張りだった。

 それでも、しつこく食い下がると、とうとう『お願いだから、私の言う事を聞いて』と哀願する始末。

 どんな知り合いかも言わなかったけれど、それだけは、はっきりと分かる言い様だった。

 

 自他共に理性派を認めていた筈の姉は、今まで見たこともないような感情的な態度で、レイの話に全く聞く耳を持たなかった。



 尤も、それも、レイ自身の加熱した頭が漸く冷えてきた今日あたりから、考えられるようなった事だ。

 その時は、一々反対する姉の態度にとてつもなく気分が悪くなっただけだった。

 それは姉の顔を見れば見る分だけ増していくようで、結局、会話を遠ざける一因となってしまっていた。



 レイにとっては、そんな思いも初めての体験だった。

 もやもやとした、薄暗い何かが胸の奥に溜まっているような不快感、とでも言うのだろうか?

 形のないそれは、今でも胸の中に蹲っていて、レイはその扱いをどうしていいのか分からない。



 どうして分かってくれないのか?

 何故そんなに反対をするのか?



 あの日、どんな疑問を叩き付けても、姉は何も言ってくれなかったし、ただ、困惑しきったような眼でレイを見るだけだった。

 いつもであれば、レイにも分かるようにその理由をきちんと説明して、諭してくれる姉なのに。

 次の日の朝だって、その次の日の朝だって、今日だって、そう。

 言い出す前に、そんな眼をされてしまえば、問いかけのしようもない。

 だから、今朝も何も言えなかったし、やっと出た言葉も『いってらっしゃい』の一言でしかなかった。



 こんな事がしたいのじゃなかったのに。

 ただ、話を聞いて欲しいだけなのに。





 溜め息をもう一つ。

 右手に予想以上に増えてしまった荷物を、左手には学生鞄を持って、レイはスーパーを出る。

 掌に食い込むビニール製の買い物袋が少し鬱陶しい。

 元々、大したものではなかった両手の傷は、その人の言葉通りに、もうすっかり治ってしまって、痕すら残っていなかった。

 それすらも、小さな絆をなくしてしまった様で、少し寂しい。

 『もしかすると、どこかでお会いするかもしれませんね。綾波さん』

 琥珀色の眸子を少し細めた淡い笑みと、柔らかな響きの声。

 思い起こす何処か懐かしい声は、遠くにある何かに誘うようで。

 けれど、何か茫洋としたものに包み込まれて。

 時間を追うにつれ薄れていく記憶をかき集めるようにレイは、きゅっと手を握りしめる。

 手の中にあるのは、暖かな記憶でも何でもない、只の現実の固まりでしかないけれど。



 もう一度、会いたい。



 泣き出したいような気持ちで、そう思う。



 ただ、会いたい。



 思考の表面ではなく、心の、もっと奥底の何かが、訴えている。



 本当に偶然の、ただ一度の邂逅でしかないのに。

 名前以外は何も知らないのに。

 この広い街の何処にいるのかも分からないのに。



 あの時みたいに、また、会えればいいのに。



 声にならない声で、祈るように。

 そんな偶然がある訳はないと分かっていても。


 あなたは、何処にいるのですか?



 3度目の溜め息と一緒に見上げた空は、遠くて。

 夕暮れ時の、薄赤く染まり始めた雲が酷くやるせない色に見えた。







同日 第三新東京市 郊外


 ミサトがレイの姿を見かけたのは、空振りの挙げ句の果てだった。



 当初の目的は、といえば、暫くは帰らないと、今朝方出かけたままの一足違いという事で。

 例の如く小汚い事務所でぼんやりしていた留守番によれば、最近よくあることで、行き先を聞くだけ無駄なので、最初から聞かないとの事。

 無論、こういう時に携帯電話の電源もついている訳もなく。

 さえない顔を見ているだけでは煮えくりかえる腹の虫が治まりきらず、かといって、飛び出すように出てきた手前、そのまま第二新東京市に戻る気にもなれず。

 どうせなら、むしゃくしゃついでに、リツコの所にでも顔を出して、憂さ晴らしの一つでもしようと思って車のドアに手を掛けた矢先に、人混みの向こうに残照を反射する銀の髪が目に入ってのだ。





 明らかに学校の帰りに買い物に寄ったと分かる風体で、商店街に面した通りを歩いているレイは酷く落ち込んでいる様だった。

 俯いて、とぼとぼとした足取りは、心ここにあらずの呈にも見える。

 少しずつ伸びてきた日は落ちきってはいないとはいえ、時計を見れば、そろそろ気の早い不作法者の姿もちらちら見えて来る時間。

 外見的にかなり目立つ上、最近、頓に可愛らしくもなった親友の『妹』は、如何にも危なっかしい雰囲気で。

 我ながらお節介だとは思いながらも、見てしまった以上、一人で放って置く事など、到底、ミサトにはできなかった。

 路肩に止めていた愛車に大急ぎで乗り込んで、人混みを避けるように歩道の道路沿いの一番端を歩いているレイの後ろにつけて、クラクションを鳴らす。

 迷惑顔で振り向いた歩行者の群の中で、一際大きく目を見開いていたレイの顔を見て、ミサトは助手席の窓を開けた。





 一応、ハザードランプを灯けて、停車の意を表して、何気ない風を装って、車を再度路肩に寄せる。

「ハーイ。レイ。送ったげようか?」

 運転席側の窓から顔を突き出して、いつものように陽気に声を上げると、深紅の眸子が微かに揺れた。

 感情の出にくい表情は、それでも、彼女の驚きと困惑を示していた。

「…ミサトさん…」

 ぽつりと漏れた声まで、何処か弱々しい。

「こんな時間まで、学校なんて大変よねぇ。ささ、乗った、乗った」

 わざと大きな声で言うと、レイは慌てて首を縦に振る。

 有無を言わさず、助手席側のドアを開けて誘うと、レイは一瞬の躊躇の後に座席に納まった。

 それは、どちらかと言えば、好意に甘えると言うよりも、一刻も早くこの場を立ち去りたいという態度で。

 権利の主張に関しては妥協という言葉を知らない親友の妹にしては、酷く気弱な姿勢に苦笑しながら、ミサトは勢いよく、アクセルを踏み込む。

 ルームミラーの中で、通行人が一斉に迷惑気な顔をしたが、一切構う事はなかった。






 漸くレイが口を開いたのは、幹線道に入って暫く経った頃だった。

 どうやらレイは数日前から続いているリツコとの確執を誰にも話せず、一人で思い悩んでいたらしい。

 とつりとつり、とできるだけ言葉を選んだ話は、会話の苦手なレイらしく、要領を得ない部分もあったが、ミサトはある程度の概容を理解できた。

 結局は、リツコの保護者としての心配性と自覚のない男性不信に帰結する問題で。

 実際の所、何時起こってもおかしくない事態がとうとうやって来た、と言うべきか。



 フタを開けてみれば、なんという事はない。

 親ばか、ここに極まれり。の結論が、早々に出てしまうような問題だったのだ。


「ふ〜ん。そんな事があったの」

「…もう、どうして良いのか、分からなくて…」

 ミサトが相づちを打つと、レイは目を伏せて小さく頷く。

 当事者でないミサトであれば馬鹿馬鹿しい事この上ない出来事でも、レイにとっては深刻な問題なのだろう。

 消沈したレイの姿を通して、おろおろとしているリツコが見えるだけに、笑いを通り越して、双方ともいっそ哀れにすら思えてしまう。

「…まぁ、リツコも行きすぎの所はあるけど、悪気があってしてるわけじゃないしねぇ」

「…でも、話も聞いてくれないし、『絶対、駄目』としか言わないし…」

「それは、さぁ。やっぱり。あなたの事を心配している訳だから、ね」

「…」

 今まででも十分やり過ぎなんだけどさ。

 等という本音は、おくびにも出さずに、取りあえずリツコを擁護すると沈黙のいらえが帰ってきた。





 温室育ちのレイにとっては、姉の感情的対応は大きな衝撃でもあったのだろう。

 好意を持った相手に対し、家族が否定的な感情を持っていれば、誰だって、いい気分はしない。

 しかも、その理由の説明も碌にないのでは、如何に素直な性格のレイとて混乱する。

 日頃の姉妹の仲の良さを知っているだけに、ミサトにはレイの酷い戸惑いが手に取るように分かった。





 特に、今回の問題は、男、が絡んでいる分だけ、拗れそうな可能性だってある訳だし。

 しかも、その相手は、今、ミサトの頭を悩ませている問題の遠因のお坊ちゃん、ではあるし。

 名前を聞いた瞬間に、よくよく絡んで来るものだ、と背中に汗が流れたミサトを誰も責められまい。





 ミサトは、敢えて軽い物言いで、レイに話しかけた。

「しっかし、まっさか、よりによって、あのザハティ博士とはねぇ…。会おうと思ったって、なかなか会えるものじゃないのに」

「ザハティ?」

 最後の方がぼやくようになってしまったミサトの言葉に、レイは訝しげな表情で問い返す。

 レイとしてみれば、リツコはおろか、ミサトまでが、彼の事を知っているような口振りなのが、酷く不安に思えたからだった。

 リツコの徹底した拒否とミサトの何とも言えない困り切った様な表情は、いずれもレイの持つ彼の印象とは全く噛み合わないものだ。

 また、同じ事を言われるのではないかと、との怯えが心を過ぎる。

 だが、ミサトは敢えて、レイの透けて見える疑問と不安を黙殺した

「氷弥って言ったんでしょ? 本当のファミリーネームは、そう言うのよ。サカキ・氷弥・R・A・ザハティ。それがフルネームね」

「…あ…少し長いから、そう名乗るって…」

「でしょうねぇ。ま、本当のところは、セキュリティ上の問題もあるんだろうけどね。ま、碌に警備もつけずに、この国にいるって分かったら、政府だって黙っちゃいないだろうし。その辺りを気にしているんだろうけど?」

「地位のある人、なんですか?」

 レイは、会話を中断させた男の姿を思い出して、疑問を口にする。

 あの若さで『博士』という称号に、セキュリティに、警備。

 それらは酷く不安を誘う言葉ではあるが、確かに彼等にはそんな雰囲気があった。

 恐らく彼は、僅かに空いたスケジュールの間を縫って、あの場所に立ったのだろう。

 レイとの出会いとて、彼女が気付くのが数分遅れていれば、すれ違うこともなく終わっていたのかもしれない。

「超VIPね。とある世界規模の財団のトップの御曹司で、そこの次期トップ最有力候補。ついでに、二桁の博士号と、一生かかっても使い切れない財産の所有者。ま、私たち庶民には関係のない人よね」

 端的に言ったミサトの言葉に、最後の望みが砕かれたような気がして、レイは見る間に表情を曇らせる。

 今まで、身の回りの学校と家庭とぐらいの日常しかを知らなかったレイにとっては、彼のいる場所は遥かに遠い世界のように感じられた。

 そこまでの存在であるのなら、レイがどんなに望んだとしても、再会など到底無理な話だ。

 相手は政府に警備をつけられる程の重要人物で、レイのような一介の学生が、気軽に会って貰えるような立場ではない。

 例え、同じ街にいたとしても、すれ違うことすらあり得ないだろう。

 そんな簡単な事は、世事に疎いレイでも、分かる。



「…関係、の、ない、人……」

 呆然と、呟く。

 そんなレイに更に追い打ちをかけるようなミサトの言葉が重なった。

「生きる世界が違いすぎるわ。育ち方も考え方も、何もかも違うだろうしね」

「そんな…」

 余りにも厳しい言葉。

 生きる世界が違うという事は、もう二度と会うことも、話をすることもできないという事で。

 姉に続いて姉の親友にまで否定されて、レイは足元が崩れ去ってしまったように感じた。





 『お会いできるかもしれませんね』

 あの優しい言葉は、結局、偽りでしかなかったのか。

 その場限りの言葉で誤魔化されただけだったのか。





 『綺麗な名前ですね』

 そう言ってくれた微笑みも嘘なのか。





 できれば、本当だと思いたい

 彼は本心でそう言ってくれて、本当に会える事を望んでいてくれると思いたい。





 けれど、『違う』という言葉は余りにも重くて、辛くて、悲しくて。




 何を望んでいるというわけではないのに。

 只、会いたいだけなのに。

 けれど、その小さい筈だった望みこそが、とてつもなく大それたものだった事に気付いて、レイは唇を噛みしめる。



 魂が抜けてしまったような雰囲気を纏って、レイは沈黙した。



 こんな事なら、話さなければ良かった。

 こんな事なら、気付かなければ良かった。



 この世に叶わない願いなど何もない、と思っていたわけではない。

 けれど、それでも、こんな風に追い込まれた事なんて、レイには初めての経験だった。

 決して叶わないと分かってしまった願いを持つ事が、こんなにも辛いものだとは。

 けれど、理性では無理だ、と分かっていても、感情の方が諦めきれない。

 まるで、頑なに対立する自分が2人いるように。

 初めて経験する言い様のない心地の悪さを感じて、レイは、ますます自分の中に沈み込んでいく。







 だから、レイは、その瞬間、ミサトの目に浮かんだ奇妙な光に気が付かなかった。

「…と、リツコは、考えたんだと思うんだけどね」

 がらり、とミサトの口調が変わる。

「えっ?」

 虚をつかれたレイは、目を瞬いて顔をあげた。

 その視線の先には、ミサトの悪戯気な光を湛えた眸子。

 気が付けば、いつの間にか車は停まっていて。

 そして、ミサトが運転席から身体を乗り出して、レイの顔をのぞき込むように見ていた。

「好きなんでしょ?」

「…?」

「自分でもどうしようもないくらいに、会いたいんでしょ? ザハティ…その、氷弥…博士に」

 畳み込むような言い方に、つい、頷いてしまうと、ミサトはにんまりと口元を歪める。

「ちゃんと、好きになれたじゃない」

 その言葉で、レイはミサトに誘導された事を悟った。

 いつか、自分自身で言った言葉。

『私は人を好きになる、という事がわからないから…』

ミサトは、その言葉を覚えていて、自分が気付かなかった事を指摘したのだ。

「…あっ」

 口元に手を当てて、レイはミサトの言葉を反芻する。

 今まで、どうしても、使えなかった言葉が何だったのか、やっと分かったような気がして。



 『好きになる』という事は、とても難しい事だと思っていた筈なのに、こんなにも容易くやってくるなんて。

 今ここで、自分が人を好きになってしまったとは、とても信じられない。

 内面の驚きに正直に、そんな顔をしたレイにミサトは片目を閉じて見せた。

「気が付いたら、自分でもどうしようもないくらいになって。駄目って言われても、止まらない。それが、好きって気持ちなのよ。前にも言ったけどね、こればっかりは、体験しないと分からないものなのよね」

「…でも、私は…」

 口ごもるレイに、ミサトは指先を振る戯けた仕草でそれ以上の言葉を制す。

「いい?好きって事は理屈じゃないのよ。資格がいるわけでもないし、ましてや、誰かの許しがいる訳でもないの。会って、好きになったから、もう一度、会いたい。それで、十分なのよ。あれこれ悩んで、ぐだぐだ考えるような事じゃないでしょ?」

「そう…なんですか?」

「そういうものなのよ。頭だけで考えてたんじゃ、直ぐ、考えすぎで疲れ果てちゃうでしょ。自分の気持ちに素直になって、言葉で理解しようとするんじゃなくて、心で感じるの。レイは、その時、何を感じたのかしら?」

 捲し立てるようなミサトの言葉。

 圧倒されるようにして、レイは記憶をかき集める。

 多少ぼやけてしまった記憶は、それでも、容易に腕の中に飛び込んできた。





 耳障りの良い声と穏やかな言葉遣い。

 暖かくて、どきどきして、それまで感じたことのなかった、心臓の疼き。

 思い出すだけで、心が何かで一杯になりそうな。

「…優しい人…で、綺麗な人で、それから…」

「それから?」



「心が暖かくなって、何処か懐かしくて…もう一度、会いたいって…。会って、ちゃんと話がしたいって…」

 もっと、一緒にいたくて。

 もっと、話がしたくて。

 それが、『好き』というたった一つの感情から生まれてくるなんて。

 不思議で、それでいて、何かがあるべき所に納まったような、何とも言えない安堵感。

「そう、思ったんでしょ?じゃぁ、答えはもう、出てるじゃない」

 ほんのりと薄桃色に染まったレイの頬を見て、にこり、とミサトは笑う。



 けれど、つかの間レイを覆ったその色彩は直ぐに褪せ、代わりに別の何かを思い出したような色が浮かび上がった。

「…でも、姉さんが…駄目だって…」

 眉を顰め苦しげな表情で、俯いて、ぽつりと呟いた言葉は、レイの中でリツコがどれだけの比重を以て存在するかを明確に表していて。

 ミサトは、仲が良いのは善い事ではあるが、何処か行き過ぎの観のあるこの姉妹の根本的問題点を見せつけられた様な気がして、眩暈すら感じてしまった。

 リツコもリツコなら、レイもレイだ。

 本当であれば、幸せで一人踊り回っていても良い状況なのに、どうしてこう人の思惑まで考えすぎるのか?

 若い内だからこそ、心のままの勢いが許されるというのに。

 その前に立ち止まっているのでは、話にもならない。



「あのね〜。あなたは、綾波レイよね」

「そう…ですけど…」

 ずきずきと痛み始めたこめかみを押さえるようにして確認すると、戸惑ったような声音が返ってくる。

「赤木リツコじゃない訳よ」

「あの…当たり前だと…」

 何が言いたいのか、分からない。そんな響きがレイの言葉の中にはあった。

「言ったでしょ? 好きになるのに、資格も許可もいらないって。リツコじゃないあなたが、どうしてリツコの許可がなきゃ、人を好きになれない訳?」

「でも…」

「あなたは、あなたの思うとおりにして良いの。好きな人がいれば、好きだって言って良いし。その人に会いたければ、会いに行けばいいのよ。人の顔色を窺って、おろおろする必要なんてないのよ」

「だけど…」

「あ〜。も〜。じれったいっ! レイ。ちょっと、そこのトラッシュボード開けてみて。中にファイル入ってるでしょ? そう、それ。その1ページ目に挟んでる奴。それ見ても、そんな事が言えるわけ?」

 あくまでもリツコの事を気にしているレイの言動に、ミサトはとうとう切れたように声をあげる。




「…あっ」

 ミサトの迫力に気圧されるようにして、言われるままに開いたファイルには、数葉の写真が挟まっていた。

 そして、その一番上、一番最初に視界に飛び込んだのは、晴天の元、鮮やかに切り取られた彼の姿。

 視線が吸い寄せられた。

 独特の、少し目を細めて苦笑するような淡い笑みは、あの時と同じ。

「…サカキ…さん…」

 ぼやけていた記憶が、一挙に鮮やかな輪郭をもって蘇る。

 それは、ミサトに言われて思い出したものよりも、ずっとリアルで鮮明で。





 きらきら光る水面を背に、柔らかそうな長い黒髪が風に揺らいで。

 『大切…だったのかもしれません…ね』

 濃い水の匂いに混じる、芳醇な百合の香りと。

 触れられた指先の滑らかな感触さえ。

 たった今、感じた事のように。



 会いたい、と心の底から溢れ出きた想いに全身が覆われる。

 もっと、あの綺麗な琥珀色の眸子に見て貰いたくて。



 リツコの言葉と、彼の微笑。

 レイにとっては、どちらも大切で、どちらも、決してなくしたくないものだった。

 だが、どちらかを選ぶという事は、どちらかを切り捨てるという事でもある。

 レイには、その踏切りがどうしてもつけられない。

 会いたいという意志を貫けば、どうしてもリツコを悲しませてしまうだろうし、かといって、言うがままに諦めてしまえば、もう二度と彼には会えない。





「ここで、諦める訳? リツコが駄目って言うからって、逃げちゃうわけ?」

 けれど、ミサトは、切り裂くように容赦なく、黙り込んだレイに浴びせる。

「そうやって、ずっと後になって後悔し続けるつもりなの? あの時、ああすれば良かったって?」

 貫くように、正面から叩き付けられる疑問。

「レイっ! あなたはそれで、いいの?あなたの気持ちも何も、まだ、伝えていないのに! まだ、何も始まっていないのにっ?!」

 逃げようのない直截な言い様は、否応なく直面する問題の前にレイを引きずり出した。


「あなたが選ばなければ、何も始まらないのよっ! レイっ!」

 何度も何度も、レイ視線は写真と中空を彷徨って。







「よく…ないです…」

 長い長い沈黙の末に、ぽつり、と、聞こえるか聞こえないかの声でレイは呟いた。

「会いたい…です…」

 やや語尾がはっきりした二言目で、レイは顔を上げる。

 そして、小さな写真を抱きしめて、それでも、精一杯胸を張っての三言目。

「私は、…サカキさんに…会いたい…」

 潤んだ深紅の目を見開いて、何かを訴えるような表情。

 それは、僅かな時の間に、どんな葛藤と逡巡があったのかを雄弁に語っている。

「とても大切なものだと思うから、この気持ちを大事にしたい…」

 小さな声で付け加えるように綴られた四言目は、レイの出した、はっきりとした結論だった。

 今度はミサトに、少しの沈黙が降りる。





 レイには、きつい決断を強いた、とは思う。

 だが、この時を逃せば、また、何時来るか分からない機会を待ち続ける事になる。



 ミサトとて、リツコの気持ちは分からないでもない。

 だが、このままでは、同じ過ちが繰り返される。

 もっと悪いのは、それが双方その事を意識していない事と、その関係が愛情という、この世で最も始末に負えないもので縛られるという事。

 相手が誰であっても、人の言葉に従う事だけが全てでなく、自らの意志で決断を下す事こそが、人間に最も必要な事である、と知らしめる時期にきているのでは、とミサトは感じていた。

 彼女が、人間としての幸せを手に入れるためには、何かを犠牲にしてまで求めるものを得る強さを手に入れなければならない。

 でなければ、レイは永遠にあの頃と同じ何もない人形のままで、只所有者が変わっただけ、という事にもなりかねない。



「それ、リツコに言えるわね」

 先程までの強い口調を一転させて、ミサトは小さな子供にするようにレイの頭を撫でる。

 ミサトの言葉に、レイはこくん、と頷いた。



 この子は、ミサトの弟妹が残した、たった一つの希望。

 彼等が、最後の最後に自らの存在と引き替えに残してくれた宝物だと、ミサトは信じていた。

 だから、強く生きて欲しい。だから、幸せになって欲しい。

 何も知らないままに、苦しみ抜いて壊されていった彼等の代わりに。





 だから、何もせず、何もかも終わってしまった後での後悔だけはして欲しくなかった。

 今の、自分のように。





「なら、ちゃんと言いなさい。真剣に言えば、リツコは、絶対に答えてくれるから」

 外していたシートベルトを無造作につけ直して、にこりと笑った顔は、もう大雑把な姉の親友の顔に戻っている。

「さ、遅くなっちゃったから、早く帰らないとね。リツコが心配するわ。親ばかなんだから」

 いつもの様に軽い調子で親友を揶揄して、エンジンを掛け直すと、おずおずと、レイが話しかけてきた。

「…ミサトさん」

「ん…何?」

「この…写真、どこで…?」

 ためすがめつしている所を見ると、漸くそこまで思い至る余裕ができたのか。

 ミサトがどうしてこんな写真を持っているかを不思議に思っているらしい。

「ちょっち、訳有りでね。ま、大した事じゃないから。それ、レイにあげるわ。ま、直ぐに実物に会えると思うけどね」

 どんな経緯でこれを手に入れたかなどとは、口が裂けてもレイには言えない。

 その代わり、焚き付けるような事を言って、ミサトは誤魔化した。

「写真より本物の方が何百倍もかっこいいんでしょ?ちゃっちゃと、リツコを丸め込んで、会っちゃいなさい」

「…はい」

 顔を真っ赤にして、それでも、嬉しそうに、レイは写真を手帳に挟んでバッグにしまい込む。

 その様を横目で見ながら、ミサトの口元には何時しか、作り笑いではない本当の笑みが浮かんでいた。



 命短し、恋せよ乙女、ってね。



 前途は多難そうだが、究極の玉の輿、というのも、またあり得ない話ではない。

 レイ自身の踏ん張りと、相手に何らの問題がなければ、の話ではあるが。



 願わくば、次のステップが低いものである事を。



 何もかも乗り越えて、本当の幸せを掴み取れる事を祈って、ミサトはハザードランプをオフにして、ウィンカーを切った。







同日 第三新東京市 ジオフロント 旧NERV本部跡


「これが、『オリジナル』MAGI…」

 あらかたの設備が取り外され吹き抜けになった広間に、そそり立つ3つの偉容。

 薄暗い照明の元、恰も巨大な墓標のようにも見える影の中で、黒衣の青年は誰ともなく呟いた。





「…ご存じの通り、制御機能の殆どは学園都市に移管をしております。ですが、オリジナルの封鎖ファイルは、現在も当時の状況のまま存在します」

「では、彼にもここでの作業があると、考えた方がいいのですね。…それにしても、凄い光景だ」

 黙ってMAGIの外壁を見つめ続けているサカキに代わり、クリムゾンと名乗った護衛が、半分以上崩れ去った壁の向こうを覗き込む。

 同じように張られた、如何にも急拵えに見える立入禁止表示覗き込んだ案内役の係官は、眉を顰めた。

「…表層都市の復興に最優先の尽力を注ぎましたので…ここまでは、…まだ…」

「時の流れの無情さと、人間同士の争いの無意味さと愚かさを思い知らせてくれるような光景。ですか。古戦場というのは、こういう所のことを言うのでしょうねぇ」

 些か苦しげな言い訳に対し紡がれた言葉は、純粋な感想なのか、それとも、辛辣な揶揄であるのか。

 そのどちらとも見分けの付かないのは、その身につけた深い色のサングラスと共に、それが正確にこの地の由縁を言い当てている為もあるのだろう。

「こういう場所で、こういう体験。というのも貴重ですが」

 舞い込んできた蝶を指先に泊めて、個人護衛は薄い唇をつり上げる。

 会話すら拒絶する触れるに触れられない壁を周囲に巡らせている若き天才に比べれば、職務に不的確な程饒舌な個人護衛は酷く人当たりが良い。

 その造作は、よく見れば沈黙を守る主賓とも大差がなく、彼等の立場を取り違えて見せる程だった。

 思わず魅入られそうになる自分を制して、係官は、また外に目を向ける。





 眼下に広がる半ば以上が土砂で埋もれた広大な地下湖水と、穿たれた蹂躙の痕跡が随所に残る地表。

 殆どが今は繁茂する雑草に埋もれ、その狭間に、徹底的に破壊され、今となっては用途すら想像の付かない残骸が錆を浮かせて点在する。

 嘗ては、数千、数万の職員が行き来していたであろう広大な地下空間も、今となっては、長らく放置された廃墟になり果てた。

 僅か6年前に行われた空恐ろしい虐殺の話題は、今も携わる者達の間で囁かれている。

 今も尚、何処からかの風に混じって、流された血の匂いと理不尽に命を奪われた者達の怨嗟の声が漂う、とすら。






 今更、ここへ立ちいるのは、死者への冒涜なのかもしれない。

 ここは、死者達だけが住まう、現世に突き出した永遠の冥府。

 この地を守るこの巨大な護人からして、最初の完成者はもうこの世にはいない。

 そして、嘗てこの広大な廃墟を支配した男も、何も語ることなくこの地を自らの終焉の地とした。

 莫大な謎と生き残った者達に贖い切れぬ罪だけを残して。



 残された者達は、敢えて死者を冒涜することによって、二度と同じ轍を踏まぬ為の道を模索するしかない。



 例え、異形の者に縋る事になろうとも。

 否、この呪われた地だからこそ、あの黒衣の青年に相応しいのかもしれない。

 蹲った影のように微動だにしない彼は、彷徨う死霊と話をしていてもおかしくはない空気を纏っていた。



 ぞっとする想像を振り払うように、係官は隣の男に話しかける。

「博士の身辺に関しましては、こちらでもできるだけ配慮するつもりですので…」

「別に構いませんよ。彼は大げさな事は望みませんから。その為に僕が、彼の側にいるのですし」

 蝶が舞い上がる。

 それは、引き寄せられる様にふらふらと極彩色の薄い羽をひらめかせて、蟠る影に向かう。

 灰色の護衛は、薄い笑みを浮かべつつそれを視線で追い、そして、その先に立つ影よりも深い漆黒に視線を投げた。






 だが、彼は、そんな視線を知らぬ気に。

 まるで、自らもまた、この地に置き捨てられた人工物であるかのように。




 ただ、密やかに立ちつくしていた。








gospel under the bluesky
chapter 3 night walkers




end





to be continued next
chapter 4 in forgetton dream




お待たせしました。

みやこねえさまこと叶 京(かのお みやこ)さんから、「本編」第3話をいただきました。

恋をする――恐ろしくまたすばらしく、それは何ものも抗うことのできない嵐のようで。

明けることのない夜に彷徨う猟犬の牙・・・その血も凍る咆哮を、聞くものはいない・・・。


2002.2.5、作者・叶 京(かのお みやこ)さんの御希望により、文章を差し換えいたしました。
ご了承下さい。


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