2019年4月30日 第三新東京市
「さ、着いたわ」
真新しいマンションの前に真新しい車が停まる。
「今日からここがあなたの新しい家よ」
降りて来たのは2人の女。
1人は運転席から降りて来た妙齢の女性、1人は助手席から降りた10代の少女だ。
「安心していいわ。隣には私の助手が住んでいるし。何かあったらいつでも連絡をしていいのよ」
些か不安気な表情を浮かべた少女に、女は何処かぎこちない笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「…本当にいいんですか…?」
真紅の眸子を震わせて銀髪の少女は、マンションを見上げた。
何処となく自分の居場所ではないような気がした。
今まで自分がいた病院の個室とは違う、人の生活の為の場所。
夕闇の中で所々暖かな灯りを点す窓は、真っ白で消毒液の匂いに溢れた病院とは比べ物にならない程、人間の生活の匂いに満ちている。
「いいのよ。あなたは今日から家族になるの。だから遠慮なんていらないのよ」
「…家族…」
「そう、家族よ。私には家族がいないの。だから、あなたには私の妹になって欲しいの」
少女は、女を見上げた。
名のある研究者だ、と世話をしてくれていた看護婦は言っていた。
自分も巻き込まれたあの事件で人命の救助にあたった立派な方だと。
リハビリの為の社会見学を兼ねて、一度だけ彼女の職場を訪ねた事がある。
堂々として周囲の研究者達を纏めあげる姿は、看護婦の言葉を裏付けるに充分な説得力があった。
けれど、今の彼女にはその面影はない。
無理に造った笑みは不安な心の裏返し。
少女に断られたらどうしようという気持ちを全身から滲ませて、女は答えを待っている。
それを無碍にできる程、少女は不遜ではなかった。
「…どうかしら?」
「…お世話になります…赤木先生…」
貰ったものの重さの分だけ頭を下げて、少女は小さな声で女の名を呼ぶ。
医者と患者という最初の出会いの時のように。
頭をあげると困ったような顔の女と目があった。
何か間違った事をしただろうか、と不安が心を通り過ぎる。
「…あの…何か…」
おどおどと問うと女は、溜め息を吐くように言った。
「私達は家族よね? 『先生』はないのじゃないかしら?」
「…あ…」
「『姉さん』と言ってくれるかしら? そちらの方がいいわ」
にこりと女は笑う。
それは相変わらずぎこちないものではあったが、その眸子はとても真摯なものに溢れていて。
「…ねえ…さ…ん」
「ありがとう…レイ…」
詰まった言葉は何よりも女の感情を表している。
俯いて前髪に隠れた眸子に何か光るものが見えたような気がしたのは、少女の気のせいだったのかも知れない。
「さあ行きましょう。マヤが退院祝いの御馳走を作って待っているわ」
少女の肩を抱き、女はパスコードで玄関のロックを解除した。
軽いエア音とともに開かれた扉の向こう側は、夕闇に慣れた少女の目を一瞬だけ幻惑する。
目が慣れると、そこはシンプルだが上品な調度が要所に置かれたロビー。
観葉植物が置かれ落ち着いた雰囲気を醸し出すそこは、少女を歓迎するように明るい光で満ちあふれていた。
少女は眩し気に目を細める。
その表情が無機質ながらも僅かに柔らかくなっているのは、見間違いではなかった。
written by 叶 京
第2話 失われざる痛み
ushinawarezaru itami
2022年3月20日 第三新東京市
「僕は招請側の皆さんの方針で、問題はないと思いますが」
重くのしかかる沈黙を破ったのは、静かではあるが深い響きを持った若い声だった。
30対の視線が一斉に、その方向を見る。
意識して外そうとしても外せない視線の先には、この場にあるには余りにも不釣り合いな鮮やかな琥珀と漆黒のコントラスト。
誰もが予期していなかっただけに、浮かび上がる戸惑いの表情を隠せなかった。
「…では、博士はこちら主導の作業に賛成であると理解してよろしいですね」
「はい。僕達はあくまでも招請された立場に過ぎません。現地の方の後々負担にならない形にするのが、当然だと思いますけれど」
リツコの確認を受けて、彼は再度同じ事を若干の補足をつけて語る。
リツコの上から動かない視線と揺るぎのない言葉は、彼がその確信を持っていることをはっきりと示していた。
ざわざわと水面が泡立つようなさざめきが、広がる。
ざわめきは、招請側だけでなく派遣側にも波及した。
つまりは、向こう側も全く把握していなかった、という事なのだろう。
彼が、何を、考えているのかという事を。
基礎調査に対するスタンスの違いは、大方の予想通り学研都市側と青鸞側に最初から深刻な亀裂を生んでいた。
ある程度の損害は覚悟の上で強行な姿勢を崩さない派遣側に対して、MAGIを運用している以上あくまで現行の動作は確保したい招請側。
下手をすれば、システムの即時解体さえ主張しかねない彼等に対して、現場の立場というものを理解させると共に双方の方針の摺り合わせを行うため設けられた事前会議が紛糾するのは当然といえば当然の事だった。
事実、つい今し方までは意味のない主張の応酬が続いていたのだ。
言葉に対する言葉。感情に対する感情。
戦場での小競り合いのように際限なくエスカレートしていった議論は、数時間を経て、既に感情論の域にすら達していた。
殊に主権を侵される側の反発を歯牙にもかけない派遣側の傲慢さは筆舌に尽くしがたく、司会役として中立の立場を執らざるを得ないリツコですら嫌悪感を持つような状態で。
双方に歩み寄りのない堂々巡りは、終わりのない迷路のように。
このままでは結論が出ることはないだろう。
そんな風に諦めてしまいかけた瞬間に、彼の発言は為された。
ダークグレイの護衛を側近のように間近に立たせ、密やかに舞台を鑑賞しているような姿勢を崩さなかった、彼の。
恐らくは青鸞側の頂点にあるだろう彼は、今まで苦笑いに近いものを心中に持って話を聞いていたのだろう。
自陣の突出した傲慢さを諫める瞬間を狙って。
論争の隙の一瞬の沈黙を効果的に使った発言は、十分に青鸞の独自路線に動揺を与えたようだった。
「しかし、ご子息、我々には我々の立場というものが…」
我慢しきれないというように立ち上がった男が戸惑った様な声をあげた。
当然の事だ。今まで主張してきた事を彼は全てぶちこわしてしまったのだから。
だが、そんな諫めにも似た言葉も彼には全く通じていない。
「僕は、交わされた契約の元に相応の代価をもって相応の技術供与を行う事が派遣技師の本分である、と聞いています。…この解釈は間違っているのでしょうか?」
それとも、最初からこれでは先が思いやられる、とでも思っているのだろうか。
「必要とされればされた分だけを派遣技師は提供すればよいのでは、と思いますが? それ以上の介入や思想的な押しつけは決して行われてはならない、と」
逆に問い返すように、淡々と訛のない流暢な日本語で制度そのものの理念を語る彼の言葉は、何処か聞き分けのない子供を言い含めるような響きがある。
男は言葉を詰まらせた。
「ご自身の考えを積極的に披露する事を悪いとは思いませんが、場所柄を弁えられた方がいいと思いますよ。
Dr.フェイツ」
止めを差すような言葉と視線に諫めるような色を込めて、抗弁すら許さない。
それがなまじ正論であるだけに、抗弁のしようがない、というのが正しいところであろうが。
「Yes,sir. Dr.Xahaty.」
青鸞主導の主張の先鋒に立っていた男の顔が、引きつるように変わった。
その表情には明らかに緊張の二文字が見え隠れしている。
対する青年は、落ち着き払った笑みを絶やすことなく、やんわりともう一つの訂正を入れた。
「氷弥ですよ。ここでは、そう呼んでください。…結構気に入っているんです。それと、ご子息というのもやめていただきたいのですが…ここにいる以上、僕も派遣技師の一人ですから」
「All right.Dr.氷弥。失礼いたしました」
「いえ、双方の理解と協調こそが滞りなく期間内に事業を完遂する為の唯一の指針ですから。その為の打合会である事をお忘れなきよう…。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。どうぞ、お話をお続け下さい」
最後の一言はリツコに向けてのものだろう。
居並ぶ技術者の中で最も若いながらも、立場上最も軽視できない事を見せつけた彼は、接点のない会話を繋いで、再び沈黙する。
丁寧な中にも全く反論を許さない言葉は、周囲を圧倒するに十分な威厳があった。
異様ね…。
内心の困惑を隠して、リツコはさりげなく正面に座る青鸞側の技術者団を見渡す。
誰もが強姿勢をとっていた技術団は、彼が発言した瞬間に借りてきた猫のように大人しくなった。
それは、劇的な変貌で。
『沈黙の琥珀』の異名の通り、この席でも彼が言葉を発したのは今回を含めて2度。
最初はたった一言の挨拶で、次がこれだ。
居ることすら意識の端にも引っかからなかった彼の存在を、今はのしかかる重圧の様に感じる。
今までと同じように薄い笑みを浮かべてただ座っているだけなのに、恰も会場の会話の全てを御しているような気すらしてきた。
飾り物どころか、事前にこちら側のスタッフの一人が冗談交じりに言っていた『御前会議』の俗称は、冗談では済まされないのかも知れない。
そんな事を肌で実感してしまった気分だった。
「…では、続けます」
リツコの言葉を受けて、氷弥と名乗った青年が頷く。
さながら『皇子』と『侍従』のように。
全ては、彼の掌の上での茶番でしかなのかもしれない…。
睥睨するようにも見える視線は何よりも重く、崩さない薄い笑みは化性の様に。
薄気味の悪い色に彩られた眸子を背に受けて、リツコはそこに一筋の冷たいものが流れ落ちる感触を感じた。
結局、リツコが自宅に帰り着いたのは、その日の夕暮れが星空に変わる頃だった。
実に2日ぶりの帰宅。
最近には珍しい早い時間帯は、やはり彼の功績なのだろう。
彼の発言以降、青鸞側の態度は掌を返したように変わり、程なく一応の妥協点に同意した。
今リツコの中にあるのは、望んだもの以上の成果を得た満足感。
それと、それが自分ではない誰かの手の上での踊らされた結果であるのかもしれないという、確信めいた疑念と。
一筋縄ではいかない。
そんな印象を残して、彼は会場を後にした。
『では、また、明日』
変わらない淡い笑みと姿に相応しい穏やかな声音で。
だが、奇妙に引っかかる余韻に、リツコは不安を感じる。
心の何処か、奥底の琴線に触れる、得体の知れない感覚。
それを何と表現すればいいのだろう。
自分の制御できない場所で言葉にならない言葉を必死に思い起こしているような不快感、というのが近いのだろうか?
自分の知らない場所で、自分の知らない己自身が何かを囁き続けているような。
そんな気持ちの悪さが、確かに自分の中にある。
それが何に由縁するのかは、聡明なリツコですら想像もつかないものであったが。
ふるり、と玄関の前でリツコは首を振る。
家庭に仕事を持ち込まないのは、レイを引き取る事にした時にマヤとも話し合って決めた。
養い子をできるだけ悲しい過去から遠ざけたいという共通の配慮は、今も厳重に守られている。
知らなくて良いことであれば、教える必要はない。
あの子に必要なのは、過去ではなく未来なのだから。
心の底に蟠る形にならない澱みを押し込めて、笑みを作り、リツコは扉のロックをはずした。
今日は久しぶりの帰宅。
楽しい我が家に重苦しい話は必要ない。
「ただいま。レイ。いい香りね」
玄関を開けて、最初に感じたのは微かに鼻を刺激する香辛料の香しさだった。
花の飾られた明るい玄関まで流れ込んだ食欲をそそる香りに、リツコは漸く日常に帰ってきたという安堵感を感じる。
靴を脱ぎ掛けていると、料理中だったのかエプロンをつけたままの妹が玄関に出てきた。
「お帰りなさい。姉さん。今日はシーフードカレーにしたの」
笑顔が鮮やかなのは何か良いことがあった印だろう。
上機嫌の彼女は、最近滅多に見ることがなかっただけに、保護者としては嬉しいことだった。
「そうみたいね。今日はマヤも来るって言っていたから喜ぶわ」
寝室で服を着替え、リビングに出るとテーブルの上には湯気を立てる1杯のコーヒー。
それを見ていつもほっとする自分に気づいて、リツコは苦笑する。
いつの間にか始まった、こんな小さな気遣いを一体何処で覚えてきたものか?
はにかむように微笑んだレイは、どう聞いても教えてくれなかった。
純白の心を持って生まれ直した。
そう、マヤをして言わしめたレイは、今年で21歳を迎える。
あれから、3年。
人は環境によってその人格を形作られる。
臨床心理学では当然の理論を実践するように、『今のレイ』は1人目とも2人目とも違う精神の成長を果たしつつあった。
3年の空白が彼女の肉体的成長をその分だけ遅らせているが、それも今では個人差の範疇でしかない。
成績は、レヴェルが低いとは言えない大学内でも上の中。
高校に行かせなかったのは、リハビリの期間中であった事とその程度の学力であれば十分にクリアできるという、保護者としての自信からだった。
そして彼女は期待に応えた。
一番心配された一般社会…学生生活にも概ね順調に適応しているようで、端から見ればもう、普通の同年代の女性と変わりない感性を持っているようにすら見えた。
『普通』である事を彼女自身が望んでいるかのように。
或いは何もかも忘れてしまったから、『逆に』そうなってしまったのだろうか?
惜しむらくは、性格が若干引っ込み思案の奥手になってしまったぐらいで。
積極的になれとは言わないが、もう少し華やかな話があっても良いのではないかと思う。
恋愛とまでは行かないまでも、異性への興味、とか。
自分の唯一の経験が不幸に終わってしまっただけに、レイに夢を見ている自分を自覚していないでもないが、それでも、リツコは幸せになって欲しいと思う。
それこそが、彼女を託して消えていった少年のたった一つの望みなのだから。
彼の最後の言葉があったればこそ、嘆く暇もなくただ前だけを向いて、リツコはここまでレイを導いて来れたのだ。
「何か良いことでもあったの?」
マヤが来るまでの、僅かな時間が今日の家族団欒の貴重な時間だ。
自分用のマグカップにロイヤルミルクティを作ってきたレイに座るように促して、リツコは何気なく問いかけた。
「…分かる?」
「嬉しそうな顔をしているわ」
「…素敵な人に会ったの…」
微かに頬を赤らめた、夢見るような表情。
リツコにも微かに覚えのある感情表現は、古今東西の乙女が生涯に一度は経験するものだ。
恐らくレイにとっては、初めての経験。
恋。
リツコの中に、漸く訪れたかという安堵感と相手に対する興味とが沸き上がる。
レイの行動範囲はお世辞にも広いとは言えない。
そうであれば、大学内、同年代の学生か。
早速、身元調査の必要がある、と思ってしまうのは保護者として仕方のないところだろう。
どんな男なのか?
姿形は、人となりは、そしてレイに対してどんな感情を持っているのか?
大切な妹が良い恋愛をできるのあれば、全面的にバックアップしてもいい。
だが、彼女の相手として相応しいと思えない時は…。
そこまでを瞬時に計算して、リツコは苦笑する。
これではまるで過保護で心配性の親ではないか。
嘗ては人形とさげずみ、憎んでさえいた筈だった。
それなのに。
「姉さん?」
「…なんでもないわ」
訝しげな表情をしてのぞき込んでくるレイに、リツコは微笑んだ。
これが愛おしいと思う気持ちなのだろう。
例えそれが、悔恨や慚愧の念から生まれ出たものであっても。
罪深い我が身が今更人を救える筈はない、とリツコは思っている。
己自身がどんなに無力でちっぽけな存在か、という事も。
それでも、こんな自分でも、無条件に手を取ってくれる者はあるのだ。
レイの打算や裏のない微笑みはそれを明確に証明してくれた。
「ところで、どんな子なの? 可愛い妹を持って行きたい人っていうのは?」
「そんな…少し話をしただけなの…。素敵な人だなぁ…って。…外国の人だと思うの。でも、日本語が上手で、綺麗で、優しくて…」
マグカップを両手で抱えるようにして、彼方を見つめる視線でレイはとつりとつりと言葉を綴る。
月並みな表現でしかない言葉は、逆にレイの精一杯の感情の表れのようで。
「何時、知り合ったの?」
「昨日。ちょっと落ち込んで、いつもの所に行ったら…」
問われるままにレイが喋った内容に、リツコの眉が少し上がる。
「あそこへ行ったの?」
「ごめんなさい。どうしても考えたいことがあって…」
「…まぁ。いいわ」
殊勝に頭を下げるレイに、リツコはとりあえず納得したふりをした。
レイの気持ちは分からないでもない。
自分が自分である由縁を持たないレイが、寄る辺のない心の中にいつも不安を持っているのはどうしようもない事だ。
未だに立ち入りが厳しく制限されている場所に足繁く通うのも、一つは『生まれた場所』で母親に縋るように精神の安定を求めようとしているからなのだろう。
それを知っているだけに、リツコは彼女の侵入を無碍に突っぱねることはできなかった。
いつもいつも、事情を知る誰かが一緒にいられるわけではないのだから。
レイは優しい。そして、見えない処で人一倍人に気を遣う。
事実、どんなに言い聞かせても、レイは仕事中のリツコの携帯に連絡を入れてきた事がない。
掛けてくるのは、常に昼休みか夜間。それも数分の必要事項だけのそっけない会話。
それがレイなりの、邪魔をしてはいけない、という不器用な気遣いの産物である事にリツコは疾うに気が付いていた。
誰かを思い出させる行動と言葉の数々は逆に、リツコの心を痛める原因ともなっていたのだが。
「市外の人なのね?」
こくんとレイは頷く。
レイが初対面の人間と会話を交わすなど、今までなかった事だ。
単に行きずりであるならば、ここまで興味は示さないだろう。
それだけに、リツコは見えてきた仄かな希望を取り落としたくなかった。
これがきっかけになると良いのだけど…。
今、レイに必要なのは、どんな慰めの言葉でもなく、どんな医学的指導でもない。
『今の綾波レイ』を絶対的に肯定する誰か。
そしてその誰かは、背後に横たわる真っ白な闇ではなく、遥か前方にレイの目を向けさせることのできる和えやかな光の持ち主でなければならない。
だが、残念なことに、今レイの周囲に居る人間は一人としてその資格を持たない。
痛みしか残らない重すぎた過去に引きずられ、誰もが熱を失った煉獄の底で彷徨う、この街の住人達では。
「仕事で来たって言ってたわ」
なら、社会人か。
だが学園都市の関係者が9割を占めるこの街であれば、捜すのも容易いだろう。
「暫くはいるって…」
何処かで、会えるといいな。と傍目にも明らかな期待を露わにして、レイはほんわりと溜め息を吐く。
「連絡先とかは聞いているの?」
今度はふるふると首を振った。
そして、思い直したように言葉を繋ぐ。
「…でも、すぐ分かると思うの…。ちょっと変わった瞳の色だから…」
レイが変わったというから、余程変わった外見をしていたのだろう。
自分の容姿にコンプレックスを持っているのは、随分前から分かっている。
人とは違う自分を恥じる。
大多数を普通と認識し、無意識下で平均化を求める人間であればどうしようもない事なのかもしれない。
突き刺さるような好奇の視線と憐憫、或いは嫌悪の情が綯い交ぜとなった視線は、どれ程高い防壁であっても防ぐことはできない。
人間社会で生きていくしかない以上、それはレイ自身が自力で乗り越えなければならない壁だった。
劣等感を払拭するための良い意味での『開き直り』をレイが手にするには、もう少しの時間が必要なのだろう。
「琥珀色なの。前にマヤさんが見せてくれたブローチみたいにきらきら光って…。あんなに綺麗な色見たことない…」
一瞬、リツコの脳裏を今日会ったばかりの、あの薄気味の悪い青年の表情が横切った。
この世の者にはどうしても思えない、生まれながらの支配者。
閉ざされた王国の後継者に最も相応しい深淵を抱えた眸子の持ち主。
彼の瞳も確かそんな色だった。
どんな遺伝子の魔術の産物なのか。その世界でも名を知られるリツコですら、見たことも聞いたこともない異形の双眸。
まさか…、ね…。
印象が違いすぎる。とリツコは心の中で首を振る。
そんな偶然があるはずがない。
第一、あの名高い城塞都市を出た事もない筈の彼には、あの場所に赴く理由がない。
だが、膨れ上がる不安を押さえることができない。
「名前、まだ聞いてなかったわね」
震えそうになる声を必死で押さえて、リツコは冷静を装った声で問う。
まさか、そんな筈はない。
あり得るわけがない。
だが、リツコの祈りにも似た気持ちは簡単に覆された。
如何にも嬉しそうな笑みを掃いて、レイはまるで宝物の様にその名を語る。
「…氷弥サカキさんと言うの…」
瞬間、リツコは足元が粉々に砕け散ったような感覚を感じた。
2022年3月21日 第三新東京市
「そんな事があったんですか…」
「全く、どうしようかと思ったわ」
変だ。とは思っていたんです。と伊吹マヤは、首を傾げて困惑の表情を露わにした。
尤も、状況は変などという生やさしいものではなかったが。
片づけに手間取り上司より若干遅れて赤木家に足を踏み入れた時、マヤが見たのは泣きそうな顔をしたレイと苦虫を噛みつぶしたような顔をしたこの家の主だった。
その重く澱んだ空気は、手の込んだ料理に砂風味のスパイスをたっぷり塗したも同然で。
楽しみにしていたまともな食事は、辛うじて胃の中に収まるだけの栄養剤以下の代物と化してしまった。
だから、食後のお茶を待たずして、這這の体でマヤは逃げ出してしまったのだ。
『姉妹』の問題であるならば、『お隣さん』に過ぎない自分は介入しない方がいいと思って。
そして、今朝。
「よりによって、よ…」
一夜明けても、リツコの不機嫌はまだ収まってはいない。
吐き捨てる言葉とキーボードに叩き付けるような指先の動きが、彼女の受けた衝撃を露わにしている。
恐らくは、今朝も早々に一仕事しでかしてしまったのだろう。
どうもこの姉妹、根に持つ性格であるらしい。
それでも警告音の一つも出していないところが、天才といわれる由縁だ。
「怖い偶然ってありますよねぇ」
「だから、男ってっ」
だんっ!と音を立ててリターンキーに指を叩き付ける。
「先輩?」
…論点がずれているような気がする。
心の中で滝のような汗を流してマヤがそう思った瞬間、モニターが一斉に紅く点滅した。
エラー、だ。
「…先輩。ショックなのは分かりますけど…」
「…何故、彼なのかしらね…」
紅い光の照り返しを受けて、放心したようにリツコは呟く。
「何もかも違いすぎるのに…どうして、それが分からないのかしら」
「それは…」
言いかけて、マヤは言葉を飲み込んだ。
嘗ての自分にも似たような経験があった事に、ふと思い当たったので。
リツコでもミサトでもないマヤだからこそ知っていた、むず痒いような心地良い熱に浮かされたような記憶。
それは『王子様願望』という言葉でしか形容のしようのないものだ。
夢を見る心の余裕を持つ少女だけに許される、まだ見ぬ世界への憧れだけに満ちた夢と現実の曖昧な境目に立つ刹那の時期。
そんな思春期の一瞬に、理想と思える人物が現れたらどうなるだろう。
恋に恋する少女達の『いつか王子様が』という思い込みは極端にしても、遠くにある物に憧れる気持ちは誰にだってあるはずだ。
例えば、教師に恋する女子学生のように、アイドルに夢中になる少女達のように。
今まではそんな余裕がなかっただけで、落ち着いて考えてみれば、『今のレイ』ならばあり得ない話ではないのだ。
実際、遠目に垣間見た彼はどんなモデルや俳優以上に美しかった。
詳しい話は聞き逃してしまったが、レイに対しても大層紳士的な態度を執っていたらしい。
だが、マヤは外見や第一印象が決して当てにならないという事も知っている。
その美しい顔の下にあるのは、血液と筋肉と若干の脂肪と。幾つかのパターンのアミノ酸の結合の結果。
その更に内にあるものは、人間であれば誰でも持っている清濁併せ持つ人格でしかない。
そんな人間がひしめいて生きるこの現実の社会は、綺麗でも都合が良くもない。
誰よりも尊敬していた人は、結局は一人の女でしかなく、自分と同じように嘆き悲しみ思い悩んでいる。
そして、理想郷だと思っていた職場は、たった一人の男の妄執が作り上げた夢魔の城でしかなかった事を思い知った。
だが、大なり小なりがあるにせよ、世の中はそんなものだ。
理想は理想でしかなく。物事には必ず裏表が存在する。
結局は、状況と舞台と規模を変えて、同じ処をぐるぐる回っているのと変わらない。
だから、マヤは夢を見ることをやめた。
否、遅ればせながら、曖昧になっていた現実と夢の境目にしっかりとした境界線を引いた、と言ってもいい。
夢は夢。現実は現実。
時折、夢に遊ぶのはいい。現実は余りにも厳しすぎるから、そこにあるだけでは、人の心は耐えられない。
だが、決して向こう側からの過剰な介入を許してはいけない。
そうなった時の行く末は、一人の男が身をもって見せつけてくれた。
周囲を惑乱し、自らの血を分けた実の息子すら贄として。
莫大な資源と数知れない命を犠牲にして、その果てに得たものは、たった1発の銃弾だった。
夢に喰われた男の末路。
銃弾は左こめかみから右側頭部を貫通。
状況は、即死。
斯くて、今の状況が存在する。
自分だけに都合のいい夢は、決して現実になり得ない。そんな教訓と一緒に。
『死んだ人間はいい。後の事なぞ考えなくてもいいからな』
溜め息を吐くように、言い放った元の上司の言葉は今も耳に残っている。
多分、その人は最初からこうなることが分かっていたのだろう。
『だが。止められなかった私も、罪人でしかないのだよ。夢に喰われたのは私も一緒だ』
そう言って、彼は自分の両手に自ら手錠を嵌めた。
『君たちは決して、夢に喰われないようにな。永遠に続く夢などこの世には存在しないのだから』
薄く笑って、重装備の憲兵隊に連行されて去った老人。
今でも、その人は、この世界の何処かで自分やリツコと同じように罪を贖い続けているのだろう。
その言葉は、今でもマヤの内にある。
その言葉こそが、背けていた視線を『汚い』と思っていた現実に向けさせた。
だからこそ、あの辛く悲しい時代を耐えられたのだと思う。
けれど。
夢を見ない人間は、果たして人間と言えるのか?
現実だけを見つめて、己の中の空虚を満たすことができるのか?
その問いに対する答えも、また分かり切っていた。
「…夢を見て良い時期って、あると思うんです」
「マヤ?」
「レイちゃんは今まで、追いつくのに一生懸命で、そんな事考える暇もなかった、と思うんです」
「あなた…」
不審気に目を眇めるリツコを後目にマヤは、エラーコールを停止させる。
打ち込んだコマンドを全てデリート。
新たに設定を立ち上げ直し、マヤはリツコの方に振り向いた。
「好きになっちゃったものは、仕方ないですよ。どうして好きになったかなんて、考える暇があったら、どうやって近づくかを考えた方が建設的ですよね」
「でも、最初から終わると分かっている無謀な恋なんてさせられないわ」
「…先輩。世の中には意外な結末っていうものもあるんですよ」
できるなら傷ついて欲しくない。
そんな気持ちがリツコの中にあるのは当然の事でもあるし、勿論マヤの中にもある。
だが、空に住む鳥を何時までも鳥籠の中に閉じこめておくわけにも行かないのだ。
後少し、もう少しと思っている内に、取り返しの付かなくなることだってある。
「私たちが育ててきたレイちゃんに、落とせない男がいると思います?」
マヤは唇に指を当てて、いたずらっぽく笑う。
慣れないはすっぱな言葉遣いは彼女らしくはないけれど、それでも、マヤの言いたい事はリツコも分かるような気がした。
「…マヤ」
「方法さえ間違えなければ、夢はきっと叶うんです。どんな形であれ」
そう、やり方さえ間違えなければ。
夢を夢とし、現実を生きる。
その折り合いを上手くつけた者だけが、この厳しい現実を生き残ることができる。
レイの見つけた夢は決して夢だけでは終わらない。
マヤの笑みは言外にそんな事を言っているように、見えた。
女は夢だけでは生きていけない。
何故なら、現実こそが自分の生きる場所だと、ちゃんと本能で分かっているから。
「応援してあげましょうよ。レイちゃんがいい恋愛をできるように」
最初から後込みをしていたのでは、何もできない。
嘗ての自分がそうだったように。
「して、良かったなって思える初恋にしてあげましょう」
「そうね。…そういう考え方もあるわね…確かに」
考え深げに頭を巡らせたリツコを、真摯な眸子のマヤが見据える。
「です。何にせよ『命短し恋せよ乙女』ですよ」
「私としては『太く長く』で、あって欲しいけれどね」
「やだっ。先輩っ。先輩がそういう事を言うんですかっ」
何を誤解したのか。
真っ赤になって顔を背けたマヤに、リツコは漸く笑みを浮かべた。
教えられることは沢山あった。
そして、今もなお、リツコはマヤには教えられることが多くある。
それは、急ぎすぎて大人になってしまった自分が、何処かでなくしてしまったものなのだろう。
しなやかでしたたかな、女の中の少女の部分。
リツコが捨てようとして捨てきれなかった残骸を、マヤは今も綺麗な形で持っている。
先の見えすぎる彼女が到底考えつかないような発想と一緒に。
「マヤ」
「何ですか?」
リツコの呼びかけに、再入力を始めたマヤが振り向く。
あの学生時代と同じ天真爛漫な笑みで。
「あなたがいてくれて良かったわ」
「どういたしまして。でも誉めてくださっても何も出ませんよ」
にこりと笑って、マヤは小さく手を振った。
同日、深夜 第二新東京市
「まさに、怪物、だな」
追加情報として手に入れた、幾枚かのディスクの確認を漸く終えた加持は一人ごちる。
大したお坊ちゃんだ、というのが正直な感想だった。
2001年2月19日、青鸞市に誕生。
2017年4月に財団の中核研究施設に、財団始まって以来の最年少で入所。
同年10月、最初の博士号を取得。
以降、現在に至るまで、10の博士号及び関連研究で3桁を軽く越える特許を取得し、来年には財団理事職就任が確実視されている。
専攻は人工知能関連範囲ではあるが、その枠に囚われることなく、幾つか進行中のプロジェクトにも名を連ねているようだ。
また、そのカリスマは凄まじく、現在、財団の中枢を掌握する総帥直下の理事会では9割までが、彼の次期総帥就任を公式非公式に承諾しているとの情報もある。
要約すれば、そんな処だ。
青鸞総帥の子息として、非の打ち所の全くない経歴は、彼の揚々とした前途を強固にするものでしかない。
将に『天才』の子は『天才』。
今世紀最大の女傑とまで言われる『青鸞女帝』エレニア・煌・R・C・ザハティの後継者。
サカキ・氷弥・R・A・ザハティ。通称:氷弥サカキ。
残念ながら『その人となりがどういったものであるか』などという事は、この急拵えの資料ではカヴァーしきれていない。
飽くまでも現在までに公開されたオフィシャルな経歴と、ある程度周辺事情を知る者の現時点の見解。
だが、それだけでも彼の非凡性が見てとれる。
異常なまでに高められた知性と、人を惹きつけずにはおかない容貌と。
研究者としての評価だけでなく、高度な政治的判断が要求される理事職就任への期待は、片手落ちではない教育の成果か。
或いは彼すらも財団の『最高傑作』であるのか。
そんな疑惑さえ湧いてくる。
現実に人が人を『造る』現場を、加持自身が見てしまっている以上。
「…葛城が一番嫌いそうなパターンだな。こりゃ」
溜め息混じりに、未整理データの保存を開始する。
発表された論文や科学雑誌に掲載された学術関係の小さな囲み記事に至るまでを網羅して収集された、莫大な資料。
にもかかわらず、神経質な青鸞の体質を体現して、彼のプライヴェートに係る具体的な記述は一切、ない。
短期間にこれだけの実績を上げているというのに、それを生み出した彼自身の存在そのものは、霧を透かしてみる風景のように妙にあやふやにぼやけているような印象すら受けた。
だがその容貌すら、最近になるまで公開されなかった青鸞最大の秘中の華は、今、現身を持って同じ空の下にいる。
その距離、直線にして僅か50km程。
彼は、鍵だ。
取り落とした何かに近づくための、たった一つの鍵。
それが、加持の確信だった。
「うずくよなぁ…。全く…」
左頬に残る傷跡を撫でて、薄く笑う。
加持は知らぬ間に入っていた力を抜いて、椅子に背を預ける。
碌に油も差されていない椅子は、嫌なきしみ声をもってその重さに抗議の声を上げた。
つぶれかけた箱からよれた煙草を取り出し、火をつける。
「…君は、そこにいるんだな…」
漸く掴んだ手懸かり。恐らく、今となっては、唯一の。
「誰も知らない真実を飲み込んで、君はそこにいるんだな?」
それは直感でしかない。
けれど、探索者としての本能が囁くのだ。
失われた真実を知りたければ、あの魔物を追え。と。
デスクの引き出しを開ける。
3人の少年少女の、今となっては唯一面影を伝える1枚の写真。
原本は疾うに失われ、複写に複写を重ね不鮮明になりつつあるそれは、それでも一瞬の刹那を切り取っていた。
誰も、何も、知らなかった頃の。
ぎこちない笑みを浮かべる少女と自信たっぷりに笑う少女、そしてはにかむような表情を浮かべた少年。
1人は全ての過去を失い、2人は永遠に行方を絶った。
それは、誰の望みなのか?
「必ず、暴いてやる…」
鍵は50kmの彼方に、失われざる痛みと共に、ある。
夜の翼を持つ魔物は、境界を犯せば、必ず現れる。
どこまで近づけるか?
モニターに写る琥珀色の眸子の青年を、我知らず加持は睨み付ける。
燻る紫煙の向こうで、その挑戦的な視線を受けた彼が何処か悲しげに笑ったように見えた。
gospel under the bluesky
chapter 2 phantom pain
end
to be continued next
chapter 3 night walkers
お待たせしました。
みやこねえさまこと叶 京(かのお みやこ)さんから、「本編」第2話をいただきました。
いまだ心に残る痛手に苦しむ『姉』と「真っ白な心を持って生まれ直し」てきた『妹』――相手を思いやるがゆえのすれ違い。
恋という夢だけを食べて生きてゆけるほど、この現実はやさしいものではない。それはよく判っている。
けれど――夢を食べることさえ忘れてしまったら、今ここに「ワタシ」が生きている意味を、一体どこに見い出せばいいのだろう?
琥珀色の眸子は、ただ、哀しいまでの沈黙を守り続ける……。
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