2022年 3月17日(現地時間) 北米 学術研究都市 青鸞



「行ったか…」

 南向きに広く取られた窓の外を眺めながら、女は小さく呟く。

 主人の権力の巨大さを象徴する広大な執務室は、元より他に人影も無く。

 ただ、麝香に似た馥郁たる香の馨が幽かにたゆたうのみ。

 足元に蟠る何かを振払うように、女は空を見上げる。



 紫水晶の視線の先には、高原地方特有の冴え渡った空を横切る一筋の筋雲。

 遥か東を目指すそれは、彼の青年の描く軌跡に似て。


  
「お前は何を望むのだ…?」

 聞く者もない言葉は、まるで祈りのように。  

「全てを捨て、全てを振払い、お前は何処に行こうというのだ」

 望む事を放棄し、祈りさえも捨てた哀れな子供。

 絶望と諦観と、深い悲哀。

 捨てざるを得なかったものを、彼は一度として惜しんだ事は無い。

 だが、その内に燻るものは未だに彼を責め苛んでいるのだろう。

 手に取るように分かるその苦悩は、しかし、誰の物でもなく。


 めて
 馬手に、希望を。
 ゆんで
 弓手に、絶望を。


 
 等分に持つが故の人の業の深さは、生涯消える事はない。

 人である事を望み続ける限り。



 女は煙草に火を点す。

 吐き出された紫煙はまるで溜め息のようで、言葉にならない何かを含んで、沈滞した空気をかき乱す。



 視線を巡らせた先には、金髪碧眼の少女と機上の人がシルバーフレームの中に。

 満開の笑顔の少女に抱き着かれ微苦笑を浮かべる彼は、刹那の幸福を噛み締めているようで。
 


 いつだったか。

 それを発見した彼は、酷く気恥ずかしそうに、僅かに嬉しそうに微笑んだ。


 
 それは、つい先刻の事のように鮮明な、記憶。


 
「…必ず戻ってこい…。お前の帰る場所は此処にしかないのだから…」

 

 
 この記憶が決して追憶に変らぬよう。


 
 女は切に、それを、祈った。



 
 
 

  
  


gospel.JPG
written by 叶 京  
第1話 青き鳥、来たる
aoki tori kitaru


 


 
2022年3月19日 第二新東京市 



「特別機とはまた御大層な事よねぇ…」

 葛城ミサトは、ぼやくように言って3葉の写真を机上に放り投げた。

 最初の1枚は、空港に係留された1機のSSTO。

 明らかに要人渡航用のものと知れるそれには、尾翼に特徴的な紋章が描かれている。

 三対の翼を大きく広げる架空の鳥を象った深青のシルエット。

 その下部には、同じ色でS.I.P.M.Fと略称が刻まれていた。

 次の1枚は、その昇降口から今将に外に出ようとする2人の青年の姿。

 いずれも長身の様だ。

 前を歩く外務省の官僚と対比しても頭一つ分は高い。

 1人は黒髪の東洋系、1人はライトブラウンの髪で肌の色から白人系である事しか分からない。

 ただ、黒髪の方は男にしては髪が異様に長い。背中の中程まではあるだろう。

 揃って痩せ形ではあるが、姿形から見て東洋系の方が主賓、白人の方が護衛のようだ。



 そして、最後の1枚。

 それは、望遠レンズでその東洋系の青年の胸から上を大きく捉えたものだった。


 
 ミサトは最後の1枚を再度取り上げる。

「噂の御子息が、こんな美形だったとはね…」

 ためすがめつしながら呟いた言葉は、溜め息をつくようで。

 東洋人の若作りを考えれば、歳の頃は二十歳台前半。下手をすればハイティーンにすら見える容貌。

 黒い絹糸のような髪を風に攫われた横顔は、驚く程整った美貌と言ってもいい。

 初春の陽光を受けてやや頤を上げた顔には、一瞬の風のいたずらに対する苦笑めいた表情が浮かんでいる。

 出所さえ問わなければ、モデルか俳優か。

 隠し撮りである事が勿体無いような1枚だった。

「…一波瀾あるわね。…きっと」

 他人事の様に言いながらも、目付きは真剣だった。

 獲物を狙う鷹のような視線。

 それは、ここ数年で身に付いたものだ。

 自らを『猟犬』と呼ぶ彼等の。


 
 ハンドバッグに写真を放り込み、椅子に架けていた同じブランドのジャケットを取り上げる。

 ホワイトボードの行動予定欄に『他出』、帰還予定時刻に『未定』と殴り書きをして、ミサトは捜査官控室の扉を開けた。



 考える前に走れ。

 座右の銘とするその言葉の通りに。


























同日 第三新東京学研都市



「耳が早いわね」

「ま、腰が軽いのが自慢といえば自慢だな…」

 久しぶりに会った旧友同士。

 そういった風情の男と女が、人影のないロビーの隅で立ち話をしている。


  
「問題があるようには見えないけれどね」

「そうとも言えないんだ。葛城が妙なものを見つけちまったからなぁ」

 ははは、と男くさそうな笑い声を上げて男は、しょうがないという顔をした。

 その左頬には、何かに切り裂かれたような古傷がある。

 顎の辺りにはちらちらと無精髭。

 よれよれのカッターシャツにひものようになったネクタイ。

 見るからに安物然としたスーツをだらしなく着こなして、それでも何処か洒脱に見えるのは男の纏っている雰囲気のせいだ。

 対する女は白いブラウスにロングタイトのスカート。その上に白衣という典型的女性研究者の出立ちだった。

 ややきつめの顔立ちを薄化粧で纏めた様は、彼女が理知的な女性である事を感じさせる。

 ただ、それだけでなく、何処か柔らかな印象を与えるのは、全身から滲み出る雰囲気のせいだろうか?

 外見の年齢に左右されない人間的な落ち着きは、彼女をして胸につけられたID以上に人の上に立つ立場であることを知らしめていた。

「待たされてる婚約者としては心配でたまらなくて馳せ参じたって事? 加持君?」

「反古にされてなければな。…式には来てくれるんだろう? りっちゃん」

「招待状を見てから考えるわ」

 相変わらずの軽口に苦笑するリツコは加持の左手の指輪を見やる。

 傷だらけのプラチナは彼のハードな人生の証のようで。

 予算に明かせてとにかく頑丈なやつを、と特注で作らせたそれは、数年を経てそろそろ耐久能力に限界が来ているらしい。

 恐らく同じくらいには傷に塗れているだろう婚約者のそれを想像して、リツコは心の中で溜め息を吐いた。

 NERV解体、職員拘束、そして被告不在の中で今だに続く国際裁判。

 先の見えない状況の中での数少ない明るい話題であった彼等の婚約が、それ以上の慶事に一向に進展しない理由は、関係者なら誰もが知っている。

「全部ケリがついたらって約束だからな。その為にはアイツには五体満足でいてくれないと困る」

 冗談めかした言葉で飾られた加持の言葉は、それでも本音である事に間違いはない。

 言えなかった言葉、言わなかった言葉の数々を心の何処かに押し込めて、彼等の今は存在する。

 ミサトと加持の選んだ道が、安穏なものでない事はリツコにも分かっている。

 だが、希望を持っているからこその停滞。

 それが良き事か悪しき事か。一概に判断がつかないのは人の世の常だ。

 それこそ、ミサト自身が言う所の『最期に笑った者勝ちなのよ』なのだろう。

「残念だけど、まだ来てないわよ」

「ありゃ…。まだ向こうでのたくってんのかよ…アイツ…真直ぐこっちに来ればいいものを…」

「向こう?」

「正攻法で行くんだったら、外務省か科学技術庁って所だな。目の付け所はいいんだが…」

 今頃はあちこちの窓口をたらい回しにされてふて腐れているだろう婚約者の顔を思って、加持は笑う。

 まともな手段では決してたどり着けない処もある。

 同じ材料を得ても、直ぐにこちらにやってきた加持の方が、1日の長があった。

 その辺りが、彼をしてミサトの事をまだまだ青いと言わせる所以なのだろう。

「青鸞の調査団の件だったら、国連の直轄ね。政府にそんな余裕はないわ」

 加持の意図する所を汲み取ったリツコは薄く笑う。

 浅慮であったが故のツケは余りにも大きい。

 研究者とはいえ、時には関係各機関との折衝さえ任されるリツコは、誰よりもその窮状を知っている。

 6年前の事件の被災者に対する補償、或いはどん底まで低下した国際的立場の盛り返しに手一杯な今の日本政府に彼等を招請するだけの余裕がないのは事実だ。

「全くだ…よく出たもんだな。億じゃ利かなかっただろう?」

「基本負担金が1000億。更に追加で250億。…ドルでよ…」

 加持は口笛を吹く。

 彼等の派遣に金がかかる事は知っていたが、それ程とは彼も知らなかったようだ。

 桁の外れた金額は、それだけ来訪者の持つ技術力を象徴しているようだった。

「国家予算だな」

「EVA並よ。追加分はその『妙なもの』がらみ。ふっかけられたものだわ」

「『世界で最も高価な賃貸物件』か…。科学技術の発達が金次第とはね…」

「最高級のスタッフと機材を揃えろと勧告しただけよ。尤も、追加スタッフにあの名前を見た時には驚いたけど?」

 その時の上層部の恐慌ぶりを思い出す。

 現場のスタッフにとっては歓迎すべき事ではあるが、管理者のとっては寧ろ頭の痛い問題であるはずだ。

 かといって、来るな、とも言えない。

 彼の組織は一度として、決定した派遣技師を変更した事はない。

 All or nothing.

 拒否すれば全てが白紙に戻るだけだ。

 故に、国連は一方的に通告された莫大な契約金とメンバーに大きな問題のある技師団の派遣を飲んだ。

「『沈黙の琥珀』『幻の皇子』『QUASAR'S MEDIUM』…何を思って来日したんだか?」

「MAGIに興味があるようね? 大容量の質問状が届いているわよ。…直筆署名と紋章入りのね。こちらとしては、優秀なスタッフが1人でも多いと助かるけど」

 当然といえば当然の問いにリツコは、実務者の言葉で答える。

『彼』はMAGIについては殆ど無知に等しい。

 にも関わらず、独自のルートで調べ上げたであろうその内容は、リツコでさえ文句のつけようがない程完璧にMAGIの特性を貫いていた。

 それだけでも前評判通りの人物である事は間違いない事だ。

「1250億の仕事か。何をやらせようって言うんだ?りっちゃん」

「…守秘義務よ…って言っても、加持君には関係ないわね」

 リツコは苦笑する。

 2つに分けられたといっても、結局はやっている事は同じだ。

 人類補完委員会の残した負の遺産を狩る『ハウンド』とその負の遺産を正に転化しようとする『第三新東京学研都市』。

 どちらにいても呪縛から逃れられる事はない。

 殊に彼の秘密結社が絡めば、必ず『ハウンド』は特権をもって介入する。

 そして、今回、その為の条件は全て揃っていた。

「えらい皮肉だな?」

「事実でしょ。あなたの言っている事が正しければ、否応なく国際問題よ。体面の為なら、上は何でもやるわね。…例え軍をこの街に置いでも」

 たいして機嫌を損ねた風でもなく、余裕の笑みすら浮かべた加持にリツコはピシリと言い放つ。

 決めつけたような言い方だが、それは間違ってはいない。

 万が一の事態が発生すれば、上部組織である国連そのものの屋台骨すら揺るがす。

 それだけの存在が、この町に乗り込んでくる。

「大事だな。何をやろうってんだ?」

 眇められた目は、その世界の住人の視線に他ならない。

 数百人もの関係者を容赦なく狩り取った『ハウンド』随一の捜査官がそこにいた。

 リツコは諦めたように溜め息を吐く。

 ここは取調室ではないが、こんな風に問いつめられるのは1度で沢山だ。

「…MAGIの『開封』よ」

「!」

 加持の口元から煙草が落ちかける。

 それを慌てて押さえて、加持は芝居がかった仕種で大仰に天を仰いだ。

「…確かに、1250億の仕事だ…」

 如何なる手段を以てしても今まで誰も成し遂げられなかったMAGIの封鎖ファイルの 『開封』。

 未だ全てが明らかにされてはいないサードインパクトの真相を明らかにする為の最終手段を、まさか外部の技術者の手で行う事になろうとは。

 意外な事を聞いたという表情をした加持にリツコは笑って答える。

「パンドラの匣ね」

「出てくるのは絶望か希望か…。只のゴミって可能性もあるな」

「上はそう思っていないわね。私はゴミの方が嬉しいけれど…」

「命を狙われながらゴミ箱を漁るのと、大枚を溝に叩き込むのと、どっちが得なんだろうな?」

 当てつけのような言葉は、けれど、どことなく楽し気で、自らを謎の探究者と呼ぶ男に相応しい台詞だった。

「私だったら、どちらも嫌ね」

 答えるリツコの声もまた、軽い。

 気持ち的には割り切れないものは確かにある。

 研究機関をも兼ねる学園都市管理に必要な極一部の機能を除いて凍結状態にあるとはいえ、MAGIの基本OSは赤木ナオコの人格を複写している事に代わりはない。

 ましてや、10年以上の年月に渡って現在に至るまで、管理者として維持してきたのはリツコ本人だ。

 彼女にとって、MAGIとは『母』であり、また『子供』である存在。

 自分ならともかく、赤の他人に興味本意で弄り回される事は、リツコとしては許せない事だった。

 だが、青鸞という他に類をみない特異な技術者集団を目の当たりする機会は、そう滅多にあるものではない。

『天才の集う街』、『賢者達の楽園』或いは『合法的に悪魔に魂を売り渡した現代の魔術師』。

 まことしやかに、そう称され続ける世界最高の技術者集団。

 知的好奇心の満足を人生の命題とする科学者であれば、興味を持たない筈がなかった。

 堅く閉ざされた扉の向こうに座する叡智は、それほどに研究者としての彼女を惹き付けたのだ。

「いつ、こっちに来るんだい?」

「契約の発効は今日の午後6時。スタッフも彼以外は到着済みで、機材の搬入と設営も順調。尤も、本人はぎりぎりに入って来るつもりのようね。連絡は一切、なかったわ」

「だが、入国は済ませている、と」

 事務的な口調で現状を語るリツコに対して、加持はミサトが持っていたのと同じ写真を取り出してひらめかす。

 新東京国際空港で盗撮された写真は、押収されたその日に複写されて身元の確認が行われた。

 その中でただ1人、速攻で身元確認ができながらも事情聴取の予定すら立たない人間がいる。

 無論、加持は上司を通してすぐさま青鸞側に問い合わせを行った。

 しかし、それに対する返答は『契約発効までの行動に関しては、かの方の自由である為、当方一切関知せず』との素っ気無いものでしかなかった。

 将に、天上天下唯我独尊。

 スタンスまで徹底している、と加持は妙な感心までしてしまった程だ。

「打ち合わせしたい事は山積しているのだけど、肝心の本人がいないのではね…」

「何処で道草を喰ってんだか? …案外、観光…だったりして」

「まさか。加持君じゃあるまいし…」

 リツコは加持の軽口に同じく軽口で応酬する。

「いいや。判らないな。向こうさんは日本は初めてのはずだし……相当のお坊っちゃんだって聞くしなぁ…」

 ぼやいくように言った加持は、もう一度天井を仰ぐ。

 天才=英才教育=世間知らず=お坊っちゃん。

 周辺調査で仕入れてきた情報は全て、そんなものばかりだ。

 写真の中の青年の穏やかな表情は、それを裏付けているような気さえしてくる。

 だが、人格と立場は関係がない。 

 多方面に渡る特許の独占によって裏打ちされた莫大な財力と発言力を持つ深青の巨鳥。

 青鸞知的財産管理財団。

 女帝とも言われる現総帥の子息は、いずれその全てを継承することになるだろう。

 信頼できる情報筋は、加持にそう断言した。

 それ程の人物であれば、どんな犠牲を払ってでも手に入れようとする輩が現れたとしても少しも不思議ではない。

 現実問題として、一切公表されていない来日が、彼の秘密結社の端末組織に感知されていた様に。

 問題は、本人に自分が狙われているという自覚があるかどうか、だが。

「本物のブルーバード・クレスタか…。とにかく時間が取れるようだったら、直接、会わせて貰えるように頼んでくれないか? あちらさんじゃ、アポ取るのだけで終わりそうだ」

「24時間警護でもつけるつもり?」

「それを考えるのは上の仕事。俺達はネズミ捕りが専門なんでね」

「呆れた。囮に使うつもり?」

「餌がいいと食い付きもいいってね。大物を期待してるよ」

 にやりと笑って加持は懐に写真を仕舞い込んだ。


  
 ハイリスク・ハイリターン。

 嘗てミサトは溜め息を吐きながら、加持の捜査手段を、こう評した。

 外見からは想像も付かない緻密な計算とリスクを顧みない大胆な行動。

 その2つが一緒になった時思いもかけない成果をこの男は齎している。

 それは、スパイ時代に培った経験と天性のリスクマネジメントセンスによるのだろう。

 だが、鋼の爪と嘴を持つ猛禽に敢えて挑戦をしようとする姿勢は、どう考えても莫迦そのものでしかない。


 
 リツコは密かに溜め息を吐く。

 MAGIの開封が決定した段階で、何かありそうだとは思っていたが、ここまで話が大きくなるとは思ってもみなかった。

 彼女とて人間。

 神の存在確率すら演算の対象とする不遜さを身につけた科学者であっても、身にかかる火の粉そのものを熱く感じるだけの感覚はある。

 加持の言葉を信じるとすれば、ハウンドの介入は避けられないだろう。

 片やSEELE壊滅を至上の目標とし、形振りかまわぬ捜査を行う組織と、片や嘗てのNERV以上に厚い秘密主義のヴェールに覆われ、その中枢は伏魔殿とすら称される団体。

 どちらにしたところで、双方ともに妥協とは縁遠いスタンスを持っている。

 恐らく加持の中では既に、何も知らない青年を中心とした網が構成されているのだろう。 

 嘗て、単身でSEELEに戦いを挑んだ時のように。

 捨て鉢でも、計算尽くでもない、彼特有の極自然態で。




 どんな犠牲を払っても、彼等は確実に獲物を追いつめる。

 それが自らを『猟犬』と呼ぶ彼等の譲れない一線だった。


 
 それが、分かっているだけに悲しい。

 彼等も、また、逃れられぬ悪夢に捕らわれている事が。


 
 彼等も私とは別の場所で、足掻いている。


 
 何百回となく繰り返した思いをふと思い出して、リツコは遠くなる旧友の背にもう一度、溜め息を吐いた。
 


 


 
同日 第三新東京市郊外 第三芦ノ湖湖畔



 この街には手付かずの森がある。

 両インパクトを何とかくぐり抜けた雑木林は極相に近い。

 僅かに緑の敷物が広がり始め、見上げれば新芽の出かかった枝の群れ。

 高い木立の合間から降り注ぐ仄かに暖かい陽光が、春の訪れを感じさせた。

 湿りを含んだ緑と土の薫り、それに混じって幽かにただようのは一足早い沈丁花の花の薫だろうか?

 後一月もしない間に、森は大きく姿を変える事だろう。

 長い忍従の時を経て、命の輝きに溢れる春の姿へと。

 だが、その変容を目の当たりにできるものは、殆どいない。

 彼女のような奇特な散歩者でもない限り。

 誰もが思い出したくない惨劇の舞台の一つであったが故に、この森に人間が立ち入る事は滅多にない。


 
 だが、彼女にとってはそれはどうでもいい事だ。

 この森の果てで生まれた彼女には。

 
 
 歩みを進める度に、木漏れ陽を受けて、肩口まで伸びた髪がきらきらと輝く。

 最後の倒木を乗り越えると足元の感触が変る。

 同時に、隠すもののない春の陽射しが降って来た。

 ゆっくりと目を慣らしていくと最初に見えるのは、白い砂浜とその向こうでたおやかな面を見せる湖。

 人為的に穿たれた大穴に雨と地下水が入り込んでできた湖水は、限りない透明。

 打ち捨てられたが故に人の手の入る事のない小さな領域は、開発により居場所を追われた動物の格好の避難所ともなっていた。

 ここにあるもので人の手が入ったものは、灰色のオブジェだけだ。

 『もどらざるものたちの碑』と刻まれたそれは、彼女が訪れる以前からここにある。

 結局、還る事のなかった数千人の名を刻んで。


 
 白く波に洗われて、骨の様になった流木に腰を掛けて、綾波レイは目を閉じる。

 指定席となって久しいこの場所は最も気に入りの場所であり、自分自身を模索する場でもあった。

 あの3年前の事件より、ずっと。


 
 彼女はいつも考える為にやってくる。

 ゆっくりと呼吸を整えるのが最初のステップ。

 寄せては返す漣の音に釣られるように、レイは意識を自らの内へと流し込んだ。

 

 
 『人はロジックでは測り切れないのよ…』

 最初に思考に浮き上がってきたのは、血の繋がらない姉の口癖。

 確かに理論では測り切れない。

 理解し切れない自分。

 ほんの僅かな積み重ねしかない、薄っぺらな自分でさえ、そんなものが存在する。

 ふと、そんな事を思って自嘲の笑みが口元を彩る。


 
 『だから、面白いんじゃないの? レイもさ悩んでばっかりじゃなくって、ボーイフレンドの1人でも作ればいいのよ。…友達、女の子ばっかりなんでしょ?』

 次に思い出したのは、たまに夕食を食べに来る姉の親友の言葉だ。

 ついこの間も、いきなりやって来て買い置きの酒類を呑み尽くした挙げ句、そんな事を言って絡んで来た。

 …それに対してはその時も今も、困惑しかない。

 ボーイフレンドどころか、それ以前の『人を好きになる』という気持ちすらよく判らないのだから。

 昨日だって、そう。

 あれは所謂『告白』というものなのだろう。

 その日の講議が全て終わって人気のなくなった教室で、レイの目の前にいきなりやって来た同じゼミの学生。

 顔は知っているが、名前は知らない、そんな程度の認識だった。

『あ…綾波さん、つきあっている誰か、いる?』

 よく見ればガチガチに緊張した彼は精一杯の努力で話しかけたのだろう。

 幽かに震える握りしめた両手と耳まで赤くなった顔。

 声すらも吃っている。

 奇妙な程冷静に観察して、レイは表情を僅かに曇らせた。

 そういう体験はなかったけれど、どういうシチュエイションなのかは知っている。

『…いないけど…』

『じゃ…じゃぁ…ぼっ僕とつきあってくれないかな?』

『ごめんなさい。そういうの、苦手だから…』

 煥発を入れず断ってしまったのは、彼女自身が自分に自信がなかったからだ。



 
 『好き』の意味とはなんだろうか?

 それは、良い事なのだろうか?

 私は…この人を『好き』になれるのだろうか?

 『好き』になってもいいのだろうか?

 
 私には人を『好き』になる資格があるの?



 
 反射的に浮かんだ、そんな疑問が頭の中で渦巻いてしまって。

『綾波さん…もしかして、好きな人とかいるわけ?』

『いないわ。…多分…きっと…』

 無くしてしまったものの中にはあったかもしれないけれど。

 そう言いかけて、口を噤むと彼は誤解したようだった。

『ごめんね。そんなに悩ませるつもりじゃなかったんだ。ただ、綾波さんていつも何処か遠くを見ているようで…。なんだかほっとけないって言うか…。ほら…、山岸さんとかと一緒にいる時もあんまり話とかしてないし…』

『遠くを…見てる?』

『…うん…。どうやっても手の届かないものを、見てるみたいで。…だったら、僕にもチャンスはあるのかなぁ?なんて…。ほんとにごめんっ。泣かせるつもりなんかなかったんだ…』

『泣く? 私が?』

『ほら、涙。気付いてなかったの?』

 言われて触れた頬には濡れた感触。

 慌てて出したコンパクトの中には、左目から一筋の涙を流した自分の姿が写っている。

『何故?』

 けれど、その問いに答えられるものは誰もおらず。

 ただ止めどもなく流れ落ちる涙だけが、何かを主張しているようで。

 
 結局、その直後にレイは迎えに来た女友達に引き摺られるようにして、教室を出た。

 相手はレイの背中に向けて何かを言っていたようだったが、彼女自身は何を言われのかは覚えていない。

 お節介で知られる彼女等は、いつもと違うレイの様子に多少驚きながらも、要領を得ない彼女の話に根気よくつきあってくれた。

 けれど、何故泣いてしまったのかという事だけは、どうしても判らなくて。

『まぁ、どうしようもない感情の高ぶりってありますよねぇ』

『綾波さんって、純情だから、きっと驚いちゃったのよね』

 彼女達は、そんな強引な結論で決着をつけてしまった。

 無論、レイ自身はそんな解釈では納得していないが。



 彼女達はレイの事情を知らない。

 隠す事ではないが、話しにくい話題であるが故に、レイは自らの過去を家族と言える者達以外の誰にも打ち明ける事ができなかった。

 彼女の記憶は、3年前に見た病室の真っ白な天井から始まっている。

 それまでの記憶は、何かに断ち切られたかのように、綺麗に失われていた。

 だから、レイは自分の事すら知らない。

 どこで生まれ、どうやってあの日までを過ごしていたかなど。

 幸いだったのは、身元引受人名乗り出た人物がその方面にも精通していた事で、レイは彼女の元に身を寄せて、半年に渡るリハビリの末、社会生活に復帰する事ができた。

 学校へ通い、今では仕事で忙しい姉となった彼の人の代わりに家事を切り盛りする毎日。

 それなりに友人もでき、それなりに人付き合いもできるようになった。

 穏やかで、それでいて何もない生活に不満がある訳ではない。

 だが、心の何処かに穴のあいたような、この空虚さはなんだろう?

 何かを何処かに置き忘れて来たようなこの歯がゆさは。


 
 だから、レイは考え続けている。

 伸ばした手の先も見えない乳白色の靄の中を手探りで歩いているような、そんな不安な気持ちの中で。

 今日だって、1限目が休講だった事をいい事に、結局学校にはいかず、こんな処まで来てしまった。

 とにかく、考える時間が欲しかったのだ。



 
 私は誰なんだろう?

 私は何なんだろう?
 

 私が無くしてしまったものは、いつになったら戻ってくるのだろう?

 何もかもなくなってしまった私は、一体何処に行ってしまうのだろう?

 
 靄の向こうにいる『本当の私』には、何処に行けばあえるのだろう?



 
 永遠に答えが返る見込みはない、と心の何処かで確信している自分自身への問いかけ。

 けれど、3年前からレイの中に住み着いてしまった切りのない疑問は、いつもちょっとした切っ掛けで容易く彼女を捕えてしまう。

 そんな事は、考える分だけ不毛でしかない事が、分かっていても。

 こうして、波の音に耳を傾け、風の匂いを嗅いでも、何処かでそれは蟠る。

 誰に問いかける事も誰も答える事もない、完全に完結した彼女自身の世界の中で。

 

 
 ふと、レイは顔をあげた。

 意識が深海から浮かび上がるように現実に引き戻される。

 風向きが変ったせいだろうか。

 濃厚な水の匂いの中に僅かに何か別の香りが混ざったような気がする。

 甘い花の芳香、そして、何かの気配。

 言葉にしようのない何かを感じてレイは流木を降りた。

 意識を研ぎすまし、感覚の指し示す方向を探る。

 視界の端で何か黒いものが閃いた。

 碑の向こう、渚の方で。


 
 とくん。


 
 心臓の鼓動が一つ。 

 跳ね上がるように。


 
 気がつけば駆け出していた。

 僅か十数メートルの距離が、どれ程遠いと思われたか。

 砂に足元を取られながら、ようように碑の下に辿り着く。

 手をついて息を整えている間にも奇妙な焦躁は納まらない。


 
 早く早く、消えてしまわないうちに。

 捕まえてしまわないと。
 
 だが、どうしてそんな事を考えてしまうのか自分でも分からない。


 
 しゃらり。


 
 耳に届いたのは、柔らかな衣擦れの音。

 それに背中を押されるように、レイは碑の向こうを目指して一歩を踏み出した。


 
 
 最初に目に入ったのもやはり、黒だった。

 黒衣の背とそれを飾る長い黒髪。黒い革紐のようなもので緩やかに止められた髪は半端な長さではない。

 艶やかな漆黒はレイがどんなに求めても手に入れる事のできなかった色彩だった。

 すっきりと背を伸ばした姿勢は、明らかに男のもので、それもかなりの長身だろう。

 背後のレイに気がついているのかいないのか、微動だにしない。

 まるで、湖面を凝視しているように、波打ち際のぎりぎりに立っている。

 肩口から覗くのは白い大輪のユリが咲き誇る大きな花束。

 芳香の源はそれだったか、とレイは奇妙に納得した。


 
 しゃらり。


 
 また、衣擦れの音が響いた。

 ゆっくりと、男は動く。

 抱えていたであろう花束を同じ黒の手袋で覆った右手に持ち直し、放り投げるようにそれを波打ち際に落とした。


 
 ぱしゃん。


 
 小さな水音が響いた後に、やってきた波が花束を攫う。

 半ば沈みながら、寄せてはかえす波にそれは翻弄される。

 それでも、徐々に沖へ沖へと流されていくのは、波の流れに乗ったせいだろうか。

 男は、相変わらず湖面を見つめている。

 言葉は、ない。

 幽かな風が、背を滝のように流れ落ちる髪を揺らす。

 その音すら聞こえるような沈黙。

 花束が波間に消える寸前にレイは、男が何故此処にやって来たかわかったような気がした。

 真っ白な花弁の花だけを束ねたその根元、茎の部分を纏めていたリボンの色は黒。

 喪の色だ。
 


 祈るでもなく、嘆くでもなく。

 無言の内に、ただ手向けの花だけを弔いとして、男はたった1人で立っていた。


 
 この人は大切な誰かをここで亡くしたのね。

 私がここで何もかも亡くしてしまったように。

 
 何故か、声を掛けてはいけないような気がした。

 一切の拒絶。一切の否定。一切の沈黙。

 静かなその背は、失ったものへの哀悼に満ちて。


 
 振り向いて欲しい。

 唐突にレイはそう思う。


 
 ざぁぁぁぁぁ…。


 
 少し強い風が湖を渡る。

 長い髪がさらさらと舞い上がる。


 
 振り向いて、話しかけて欲しい。


 
 それは、抗い様のない欲求。


 
 どこからきたの?

 あなたは誰。あなたは誰? あなたは…?

 あなたがいるから、私はここにきたの?


 
 聞きたい事は山程ある。

 けれど、何故か、声がでない。


 
 どれくらい時間がたったか。

 ようやく男の時間が動き出したようだ。

 力なく垂れていた右手が上がり、一房だけ革紐の拘束を逃れていた髪をかきあげる。

 髪に隠れていた耳朶には、黄金色の十字架のピアスと同じ色の精巧な彫刻が施されたイヤカフ。

 一瞬だけレイの目に晒されたそれは、陽光を反射してまた髪の間に埋もれる。

 だが、その輝きがレイの呪縛を撃ち破った。

 詰めていた息が、気道を流れる感触。

 話し掛ける機会は今しかない。

 全身の精神力を振り絞って、レイは声を出した。

「あの…」

 その声に答えるように、ゆっくりと男はこちらを振り向く。

 目があった瞬間、レイは不作法な事も忘れて、魅入られたように凝視していた。

「何か御用ですか?」

 驚いた風もない彼は、もしかすると最初から気付いていたのだろうか?

 レイ程白くない淡い象牙色の肌は東洋人の様にも見える。

 端正な造作は、彼の人種特有の中性的というよりも、それすらないようなどこか現実離れした美貌で。

 身に纏う飾り紐で止められた衣装と黄金を基調としたクラッシックスタイルのアクセサリーは、その雰囲気を一層色濃いものとしている。

 けれど、何よりも印象的なのはその眸子だった。

 東洋人にはあり得ないその色は何色と言えば良いのだろうか。

 黄色、橙、黄土、茶、蜂蜜…。

 どれにも似てどれとも異なる、磨き抜かれた宝石のような複雑に光を含んだ色彩。

 ようやくレイはその色を表現できる単語に突き当たる。

 これは、琥珀…だ。

 億単位の時間をかけて、ゆっくりと地の底で作られる太古の記憶の欠片の結晶。

 時間と時には空間すら封じ込める希少な貴石そのものに似た色彩を、目の前の青年は持っていた。

 目が離せない。

 深い深い色彩に彩られた眸子は、見るものを惹き付ける。

 まるで、電磁性を有する本物の琥珀のように。


 
 彼はゆったりとした足取りで近付いてきた。

「ずっと、ここに立っていましたね?」

 やはり気付かれていた。

 些か困惑気味の口調で話し掛けられて、レイは頭の中が沸き立つ。

 話しかけた癖に肝心の『何を話題にして話しかければ良いのか』が判らない。

 とにかく会話を繋げようと必死に言葉を捜すが、出て来た言葉は初対面の人間に持ち出すには余りにも相応しくない言葉だった。

「…あの…花束…? 誰か…ここで…?」

「ええ。知人が…。一度は来たいと思ってましたから」

「…大切な人…?」

「大切…だったのかも知れません…ね…」

 レイに答えた後で、背後の湖を振り向いて青年は呟く。

「あの頃は判らなかったのですが…」

 淡々とした口調だからこそ、苦い後悔を伴ったものだと解ってしまう。

 押さえられた声音は追憶を噛み締めているようで、レイは胸を突かれたような衝撃を受けた。

 
 私は何を言っているのだろう?

 こんな事聞きたい訳じゃないのに…。


 
 どうして、こんな傷つけるような事しか言えないのか。

 こんな所にも、自分の人間としての経験の足りなさが顔を出している様に思える。

「ごめん…なさい…」

 やっとそれだけを言って、レイは俯いて奥歯を噛み締めた。

 多分不躾な人間だとこの人は気を悪くしてしまっただろう。

 打拉がれたようにレイは思う。

 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「…まぁ、大の男が花束を持ってこんな所をうろついていれば、誰だって不審に思うでしょうね」

 レイははっ、して顔をあげる。

 正面には柔らかな笑みをたたえた琥珀の眸子。

「別に気にされる必要はありませんよ。誰にだって、自分ではどうしようもない好奇心はありますから…」

 言いながら、彼はレイの右手に漆黒の両手で触れてくる。

 突然の行動に驚いて手を引こうとすると、押しとどめるような手の動きと伴に宥めるような声が降って来た。

「こんなに力を入れていると手の平が傷付いてしまいますよ?」

 その手をレイに見せるように持ち上げる。

 そこにあるのは血の気を失い、爪が掌に食い込む程、握り締めて震えている自分の右手。

 自分自身も気付かぬうちに為されたそれは、まるで、自らを傷つけるように堅く堅く結ばれていて。

「…あ…」

 声をあげる間にも、丁寧にほぐすように長い指が岩の様になったレイの指を開いていく。

 素肌を晒していないとはいっても、彼の手は決してごついものには見えなかった。

 節のあまり目立たないほっそりとした指先は寧ろ女性の指に近いだろう。

 それでも、さして力を入れてないように見える指先で開かせてしまうのは、彼の安心させるような笑みのせいかもしれなかった。

 優しい指裁きは、もっと触れて欲しくなるような柔らかな感触で、不思議に心地いい。

 全ての指を開き終えて、手の平を丹念に調べていた彼は、にこりと微笑んで手を離して言った。

「左手は自分でできますね?」

 されるがままになって、その様をぼおっと見ていたレイは、更に恥ずかしくなって顔を赤く染める。

 左手を自力で開いて、改めて見た両手は、爪の跡がくっきりと残って如何にも痛そうだ。

 実際、脈が打つ度にひりひりと痛んではいるが、幸い鬱血もなく、数時間後には元に戻りそうだった。

「あり…がとう……」

「いえ、大した事がなくて何よりです」

 ようやっと出た言葉に彼はにこやかに答える。

「手が使えないのは、存外不便ですからね。僕も痛めた時には苦労しましたから。…自業自得でしたけれど」

 嘗て似たような経験があったのか、利き腕なのだろう右手の指を動かして彼は苦笑する。

 しなやかな動きを見せるその指を見ていると、先程の感触が蘇るようで。

 レイは、頬が熱くなるのを感じた。

 多分、今自分は耳まで真っ赤になっているに違いない。

 そう思うと余計に血が登ってくるようで、ますます顔が火照って来るのを止められない。

 心臓がとことこと音を立てて走りはじめる。

 何を言っていいのか、また分からなくなってレイは黙り込む。

 青年も淡い笑みを浮かべたまま、話しかけてはこなかった。


 
 再度訪れた沈黙。

 けれど、それはレイにとっては先程の居心地の悪いものではない。

 感じていた焦躁も身を焦がすような渇望もなく、穏やかな空気だけが流れる時間。

 たゆたうように身を任せたくなる、なんとも言えない充足感と心地良さ。

 誰と一緒にいても、いつも心の何処かで感じていた喪失感を、今は感じない。



 不思議な人。



 柔らかく微笑む表情はどことなく人を安心させるような雰囲気を持っていて、その声も姿も知らないものなのに何処か懐かしい感じがする。

「あの…」

 呼び掛けようとして、名前を知らない事に気付く。

 それを問おうと、言いかけたレイの声は無情にも、背後から響いた呼び声に覆い隠された。

「あの…名前…」

Sakaki. Time is up.

 予想もしなかった声に驚いて、振り向けば、レイの入って来た方とは反対側に男が1人立っている。

 その奥の木立の向こうの国道沿いには、黒いセダンが1台。

 如何にも外国人風に見えるライトブラウンの髪の男が青年に向かって声をかけたのだろう。

 ダークグレイのスーツにサングラスといった出立ちは、彼とその男との関係を如何にも雄弁に物語っている。

 恐らくは身辺護衛の類いなのだろう。

 確かに、彼にはそれだけの存在が付けられてもおかしくはない雰囲気があった。

 仕立ての良い衣装に、丁寧な物腰。華やかでこそないがそこに立っているだけで周囲の目を惹き付けるような存在感。

 それらは、彼をして市井とは別の世界の住人とするに足る充分な条件だ。


 
 けれど、今のレイにはそれよりも重要な事がある。

 呼び掛けられた言葉の中に混じっていた短い単語。

 不思議に日本語の響きの混じったそれは、もしかすると。

Yes, I see. Crimson.

 叫び返して、青年はレイの方を見る。

「残念ですが、時間切れです。行かなければならない所があるので…」

 苦笑するような表情は、時間に厳密な同行者に対するものなのだろうか。

「サカキ…さん…?」

 と言うのですか?の部分が見事に消えていた。

 唐突に名前を呼ばれて、青年は少し戸惑ったような顔をする。

 けれど、レイの言いたかった事はきちんと伝わったらしい。

「え…ああ…名前ですか。ええ、サカキと言います。この国風に言えば氷弥サカキ…ですか」

 彼は中空に字を書いた。

 氷という字と弥生の弥。それで、『ひみ』と読むらしい。

 一風変った読み方ではあるが、漢字で書かれる姓を持つのであれば日系人である事は、ほぼ間違いがない。

 同じ日本語の名前。そんな小さな共通点がレイには酷く嬉しい事に感じられる。

「本当はもう少し長いのですが、この国ではこう名乗ろうかと…。あなたは?」

「あ…綾波レイ…」

「綺麗な名前ですね」

 にこりと、サカキと名乗った青年は微笑む。

 姉達がいれば『殺人級』と称すような笑みは、免疫のないレイには毒が強すぎた。

 ようやく血の気が引き始めたレイの頬がまた赤く染まったのは単純な褒め言葉のせいばかりではないだろう。

「あの…」

「何か?」

「また、会えますか?」

 思い切って言ってしまった後で、レイは少し心配になる。

 もし彼が通りすがりの異邦人であるなら、二度と見える機会はない。

 けれど、これきりにするには、余りににも惜しい出会いだった。

 できるならもう一度、会いたい。

 祈るような気持ちで、レイはそう思う。

「この町には仕事で来ました。暫く滞在する予定ですから、もしかすると、どこかでお会いするかもしれませんね。綾波さん」

 それは社交辞礼であったかもしれない。

 だが、レイはその言葉を、少なくとも機会はあると解釈をした。

 そう思うとレイは舞い上がってくる心を止められない。

 隠す事なく全身で喜びを表現するレイは端から見ても微笑ましい姿だった。

 そんなレイを眩しいものでも見るように彼は目を細めた。

「それでは…」

 軽く会釈をして彼はするりとレイの脇をすり抜ける。

 慌てて会釈を返した時には、彼はもうレイに背を向けて待ち人の方に歩み始めていた。

 レイの見ている前で彼等は二言三言会話を交わして、木立の向こうに消える。


 
 その姿を最後まで見送って、レイはまだ多少疼いている両手をそっと胸に当てた。

 思い返す丁寧な言葉使いと優しい仕種。

 生ける宝石のような綺麗な琥珀色の眸子。

「氷弥サカキ…さん」

 目を閉じて、小さな声で呟いた彼の名前は、とても甘くて。

 未だ残る手の痛みさえも、大切なものに思えてくる。

 幽かに残るユリの残り香は、そんな気持ちを更に強めているようだった。

「もう一度、あいたい…」

 その小さな願いがどんな事態を引き起こすか、彼女自身知らないまま。

 ぽつりと、囁かれた声は、けれど、風に攫われて誰の耳に届く事もなかった。












 僅かな振動すら感じさせぬ車内は、針が落ちた音すら響くような静寂に包まれていた。

「不粋な事をしてしまったかな? サカキ」

 後部座席から見えるルームミラーの中には、サングラスの男。

 数年の付き合いになる専属護衛は、面白いものでも見たように口元にうっすらと笑みを掃いている。

「別に…」

 対するサカキの言葉は少ない。

 その顔からは、レイに見せていた笑みは完全に消えていた。

 変って浮かび上がるのは、深い困惑の表情。

「これも計算済み…とは言わないよね?」

 今度は答えない。

 その代わりのように、サカキは窓の外に視線を向けた。



 
 
「…できれば、会いたくなかったよ…」

 流れ去る光景を眺めながら、呟く。

 苦渋に満ちた声は、深く重く車内に沈滞し。

 そして、何処ともなく消えていった。
 
 
 


gospel under the bluesky
chapter 1 blue bird cresta
end


to be continued next
chapter 2 phantom pain



みやこねえさまこと叶 京(かのお みやこ)さんから、ようやく「本編」第1話をいただきました。

「gospel under the bluesky」――低き昊(そら)の地上、打ち捨てられた湖のほとりで出会ったふたり・・・その先に、どのような運命が待っているのか・・・。


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