どこかで、何かが始動する。


それは、まるで何かの産声のようで。


安寧を引き裂く雷のように。


裁きを齎すいと高き御方の恩寵のように。


女神はわが子を取り落とし、古き契約が今生に果たされる。




…アナタハ、ナニヲ、ノゾムノ。コノ、ヒクキ、ソラノ、チジョウ、デ…







そして、巨大な光が、世界を覆った。





gospel.JPG

written by  叶 京
承前 最後に還り来たる者
saigo ni kaeri kitaru mono







 西暦2019年 2月19日 第三新東京市

 聞こえるのは、端末の駆動音と幽かな空調の響き。

 孤独という重い沈黙だけが、室内を支配している。

 赤木リツコは、ふと何かを感じて、モニターから視線を上げた。

 腕時計の時刻は午後2時。

 今日も昼食の時間をとばしてしまったらしい。

「また、マヤに怒られるわね…」

 のろのろとした動作で、煙草に火をつけ、くゆらせる。

 常であれば、一杯にならないよう細かくチェックされている灰皿には、既に吸い殻の林が出来ていた。

 それを器用に避けながら、灰を落とす。

 立ち上った薄い煙りは壁に掛けられた猫型のコルクボードの前を横切って、空調の風に乱される。

 それをなんとも無しに見上げてリツコは表情を緩めた。

 ボードには1枚のメッセージ。


『先輩へ

 ちゃんと食事は1日3回とって下さい。

 それと、煙草の吸い過ぎに気をつけて

               伊吹』


 その下には、彼女がそれを書いたと思われる日付け。

 2019年2月17日。

 彼女がリツコの代理で第二東京市へと発った日にこれは書かれた事になる。

 御苦労な事だ。

 彼女は始発のモノレールに乗ったはずだから、その前にここへ寄ったのだろう。

 殺風景だからと彼女が持ち込んだそれは、少し高めの位置にかけてある。

 マグネットで止められた研究関係のちょっとした書き留めが占領する他のボードに比べ、碌に押しピンの跡のないそれは余り使われていないという事で。

「見なかったって言い訳されてもしかたないわね…」

 二日振りに少し笑う。

 有能でありながら少し抜けている助手と今日まで気付く事のなかった自分の狭い視界に。

 そして、ふと思い出す。

 ここ2日は、笑うような気が起きなかった事を。

 己の力のなさ故に起こってしまった、最も恐れていた事態の事を。

 この事を彼女が知れば、どんな顔をするのだろうか?

 彼女であれば、自分の代わりに涙を流してくれるのだろうか?

 不意に何とも言えない不安が胸に沸き起こる。

 慚愧、怨念、悲しみ。

 あるいは、何もできない自分に対する無力感。

 あの事件以来いつも心の何処かで燻り続けていたそれが、全身を覆い尽くそうと牙を向く。

 リツコは強く首を振ってその不吉な予感を追い払った。

 まだだ。まだ時間はある。

 最後の瞬間まで、諦める事はない。

 そうでなければ、自分がここまで生き延びた理由がないではないかと。

 煙草を揉み消し、立ち上がる。

 食事をとらなければ。

 2日間、碌に食事もとっていないような状態では、どうせまともな考えも浮かぶまい。

 今の自分に必要なのは気分転換と健康を維持する為の食事であることは分かりきった事だった。

 ここまでしつこく忠告されてしまった良心だって痛む。

 そんな事を考えつつも常日頃から目の色を変えて生活チェックを入れている助手の顔を思い出す。

 回想の中で助手が苦笑していた。

 そんな小さな思いつきが、自分はまだ大丈夫なのだと思わせてくれる。

 前向きに、前向きに…。

 まるで、自分に暗示をかけるようにリツコは意識を無理矢理に間近の問題に切り替える。

 さて、何処で昼食をとるべきかと考えていると、不意に来訪者を告げるチャイムがなった。

 誰だろうと思いながらも、滅多に使う者もいないインターフォンに切り替える。

「はい、赤木です」

『りぃつぅこぉ〜。ちょーっち、ここ開けてくれない?』

 話し掛けると返ってきたのは珍しくも懐かしい親友の声だった。

「ミサト? ミサトなの?」

『そおよ〜。久しぶり〜。開けて開けて〜』

 緊張感も何もないお茶らけた声は、相変わらずで。

 とるものも取り敢えず、ロックを解除すると紙袋を下げた旧友が立っていた。

 この侵入者が、部屋の主の許しもなく乱入してくるのはいつのもことだ。

 一時期、精神の均衡を乱しかけたリツコを何かにつけ見舞っていた彼女は、社会復帰した今でもたまにこうして抜き打ちで様子を見にやって来る。

「久しぶりね。ミサト」

「3ヶ月振りかしら。ちょっちこれ置かしてくれない? 昼まだなんでしょ? 買ってきたからさ」

 袋を軽く持ち上げてミサトは笑う。

 その表には某有名料亭の紋。

「どうしたの? これ?」

 予約なしでは決して手に入らない限定生産の懐石弁当は、到底ミサトが思い付くようなものではない。

 その疑問をストレートに突き付けると呆気無くミサトは白状する。

「マヤに会ってさ、休みを取ったって言ったら、何か食べさせてくださいっ、て。相変わらず信用されてないわね」

 信用されていないというのは大層な言い方だが、確かにこの件に関しては見事に適中している。

 リツコは苦笑いを浮かべたきりで、一言もなかった。

「まぁ、折角のマヤの奢りだし。食べよ食べよ」

 リツコの作った空きスペースに、どっかりと包みをのせていそいそとミサトはそれを解いた。

 重箱風の折をあけると、中には目にも鮮やかな季節の料理が詰まっている。

 松花堂風に盛り付けられたそれは、いかにも女性向きで、マヤのこだわりが判る逸品だった。

「なんと、お茶もあるのよ」

 ビニール袋の中から、こればかりはそこらの自動販売機で売っている缶の茶を取り出して、リツコの前に置く。

 自分の前にはビールのロング缶。

 察するに、茶は多分、ついで、だ。

「…で、自分はビールなのね」 

 豪華懐石弁当をつまみに飲もうという魂胆がミエミエのミサトにリツコは溜め息をつく。

「貴方は勤務中で、私はオフ。当たり前でしょ?」

「珍しいわね」

「そうなのよ。3ヶ月振りよ3ヶ月振り。世界中振り回されてさ。困ったもんだわ。ウチの上司もさ」

 ビールを一仰ぎし、ぱちんと口で割り箸を割って、早速弁当箱に顔を突っ込んだミサトは、どう見てもリツコへの差し入れというよりも自分が食べたかったようにも見える。

 けれど、それは遠慮するなというミサトの親友に対する見えない思いやりで。

 リツコは幽かに口元を緩める。

 一度自分に裏切られ、そしてそれ故に、今も常に危険と隣合わせになりながらも、自分を親友として扱うミサトの度量の広さに感謝して。

 彼女自身が言うように、ミサトは暇ではない。

「…で、そっちはどうなの?」

「だめよね。流石に3年も経ったら中々尻尾も掴まえられなくてさ」

 折りが半分程空になった頃、何気ないように問いかけたリツコにミサトは大仰に箸を持った右手を振った。

 そのあっけらかんとした態度は、言葉とは全く馴染まない。

 けれど、ミサト自身誰よりもその事を悔しく思っているだろう事はリツコ自身にも容易に予想はついた。

 ミサトが今所属しているのは、あの事件の後に二つに分けられたNERVの後任組織の一つ。

 NERVを末端とし、あの事件を引き起こした秘密結社を人類共通の敵として追い詰める為の国連直属の非公開組織だ。

 最初の1年こそ、リツコの耳にも関連企業や息のかかった政治家達が検挙されたという情報が頻繁に聞こえてきたものだが、最近はそれも余り聞こえなくなっている。 

 全ての決着がついたという訳では勿論、ない。

 事実上、捜査は膠着状態に陥っていると言っても良かった。

「ま、結局は地道な情報収集しかないわね。加持なんかもう半年も世界中飛び回ってるわよ」

「大変ね」

「自分達で播いた種だもん。ちゃんと刈り取らないとね。…でなきゃ死んだ人達が浮かばれないし」

「そうよね…」

 確かにそうだ、とリツコは思う。

 ミサトのように知らずに加担した者、リツコのように知っていながら止めなかった者。

 罪の大小はあるが、結局はそれを負ってしまった事に変わりはない。




「大変なのはリツコも一緒でしょ? で…どうなのよ。最近も結構還ってきてるの?」

 もぐもぐと口を動かしながら問いかけにリツコは首を振った。

「こっちも駄目よ。5ヶ月前の2人が最後だったわ」

 ミサトは箸を止める。

 そして、溜め息を吐くように言葉を紡いだ。

「そう…やっぱり全員は無理なのね…」

「精神状態に大きく支配されているようね。帰還者は全員何らかの形でポジティヴ思考の持主だったわ。結局は生きようとする気力が明暗を分けたってところよ…」

 あの日、世界は赤い海に飲み込まれた筈だった。

 サードインパクト。

 ゼーレと自ら名乗った組織が、終局の目標としたそれは、けれど、不可解な理由で頓挫した。

 否、そこで何があったのかを知る人間は未だに彼の赤い海から帰還する事はなく、頓挫したと見られている、と表するのが正しいだろう。

 もし、完全な補完が行われていたのだとすれば、今ここでリツコとミサトがこうやって話している事は決して、ない。

 逆を言えば、このただ一点のみが人類補完計画が破綻したという唯一の証という事にもなる。

 そして、自我を融かれただ一つに回帰して行った人々は現世に戻ってきた。

 無論、全てが戻ってきた訳ではないが。

 人類進化研究所。

 皮肉としか言い様のない仮称を与えられた組織の追跡調査によれば、現段階での未帰還者の数は消失した人口の大凡一割。

 その数を多いと見るか少ないと見るかは意見が別れる所だ。

「生きるべくして生きるか…。…神は自らに祈る者にしか今だ振り返らずってわけね」

「そうね…。あの子達には祈りすら与えられなかったから…」

 遠くを見るように言ったミサトにリツコは小さく頷く。

 深い懺悔と後悔を込めた言葉。

 膨大な数に昇る還らざる者の中には、ミサトが最も還る事を望んだ少年少女達の名前が刻まれていた。

 そんな中で、生き残る事ができたのは、互いに僥倖でしかない。

 救出された時、リツコは地下のLCLの水溜りから仮死状態、ミサトは出血多量の為の衰弱死寸前だった。

 加持に至っては、暗殺されかけた事を逆手にとっての逃亡という非常手段すら取らざるを得なかった。

 尤も、その逃亡があったからこそ、彼等の命は辛うじて繋がれたようなものなのだが。

 後から聞いた所によると、加持は自分が得た全ての情報を持って、国連内の反ゼーレ勢力に秘密裏に保護を申し出たらしい。

 結果、サードインパクト直後の混乱し切った状況の中での奇蹟に近い救出劇に結びついたのだ。

 言わば失うはずだった命を拾い上げてしまったもの同士。

 無為に時を過ごす事は決して許される筈はなかった。

 故に、リツコはこの3年必死になって模索を続けた。

 帰還者達を徹底的に調べ上げ、莫大なデータを蓄積して。

 全ては、彼等にもう一度生きる機会を与える為に。

 だが、その蜘蛛の糸ももう間もなく切れようとしている。

 その事を親友に伝えなければならない。

 ミサトには誰よりも早くその事を知る権利がある。

 だが、知れば彼女はどう思うだろう。

 再び持ち上がりかけた怯えに似た感情を無理矢理に抑え、リツコは改めて口を開く。

「…その事なのだけれど、ね…」

 歯切れの悪いリツコの口調にミサトは口に運びかけていた湯葉を弁当箱に戻した。

「何か、あったの?」

 ミサトは覗き込むようにリツコの顔を見る。

 その視線に背中を押されるように、リツコはゆっくりと言葉を紡いだ。

「…後6カ月…様子を見て、現状が変わらないようなら定点観測施設を残して、あの場所から人員を引き上げる事になったわ」

「…そんなっ」

 静かな、それでいて決定的な宣告にミサトは息を飲む。

 帰還者は例外なく体力的にも精神的にも衰弱していた。

 たとえ自力で帰還したとしても、一刻も早い応急処置がなければ、数時間として持たない程。

 救助隊が帰還地に常駐しているのはその為で、その助けがないとすれば、戻ってきたとしても…。

「実質上帰還不可能。未帰還者については正式に死亡として戸籍を削除する。一昨日、呼び出されて、そう、通告されたわ…」

「じゃあシンジ君達はっ!」

「戻ってこなければ、その中に含まれる事になるわね…。後半年のうちに自力で帰還するか、強制サルヴェージの技術が確立しないかぎりは…」

「見捨てるつもりなのっ!!」

 激高したようなミサトの叫び。

 それは、叫ぶ事のできなかったリツコ自身の代弁のようで。

 リツコは唇を噛み締める。

 あの時、そう叫べたら、どれ程楽だったろうか、と。

 けれど、それを言う事ができる立場に自分がいる訳もなく、ただ、そうですかとしか言えなかった自分がどれ程悔しかったか。

 司法取引という国連側の申し出がなければ、自分は今ここにはいない。

 罪を償うための選択は、一方でまた大きな軛となって、今もなおリツコの行動を制限し続けていた。

「リツコっ! 貴方諦めるつもりなのっ!?」

「諦めちゃいないわよ…まだ、半年も…ある」

 自分に言い聞かせるようリツコは呟く。

 だが、その小さな声はミサトの激高を瞬時に冷却した。

「…まだよ…まだ、私は諦めない…。絶対に…」

「リツコ、貴方…」

「僅かでも可能性がある限り、希望を捨ててはいけない。そう言ったのは貴方よ?…確かに帰還は絶望的かもしれない。上層部がそう考えるのは当然よ。でも、私はあの子達の生きようとする思いを信じたい。でなければ私がここにいる意味はないのよ…」

 ハッとしたようにミサトはリツコの顔を見直す。

 そこには、底知れぬ光を込めた眸。

 ミサトは言葉を失う。

 深い絶望の果てに漸く見つけた希望に縋る、哀れな女の目がそこにあった。

 それは、鏡の中の自分を見ているようで。

 惨劇を引き起こした者達を追求する事で罪を償おうとするミサトと、もう一度彼等という存在を呼び戻す事で償いとしようとしているリツコ。

 彼等は己にできる贖罪を自ら背負った。

 そして、その背にあるものは決して下ろす事は許されないのだ。

 彼等が守れなかった子供達の為にも。



 重い沈黙が降りる。

「…そうよね…後半年もあるのよね…」

「そうよ。半年もあるの」

 『も』の所を強調して、2人は顔を見合わせる。

 だから、諦める訳にはいかない。

 その思いを確認するように。

「…実際、シンジ君達が戻ってこないのはおかしい事なのよ。補完計画のプロセスを勘案すれば、今の世界は彼が望んだ状態という事になるはずなのよ。他人の存在する世界で生きる事。それが彼の望みのはずよ。それはMAGIのシュミレーションでもほぼ完璧にそうなっている。でも…」

「…それなのに、還って来ていないのね」

「そう。まっ先に還って来ていてもおかしくない筈なのに…ね。何故、還らないのか。還れない理由があるのか。それに…」

「それに? まだ、何かあるの?」

「どうしても、判らない奇妙な資料があるの。…何と言っていいか…」

 リツコにしては珍しく戸惑ったような言い方にミサトは眉を潜める。

「妙って何よ? また、何か見つけた訳?」

 ミサトは先を促そうと言葉を綴る。

 だが、リツコの口が開かれる前に、話は中断した。

 内線呼び出しの軽い音。

「ちょっと待って…はい赤木です…」

 手でミサトを制してそれを取ったリツコの顔が見る見る緊張した。

「はい。直ぐ行きます。観測は続けていて、救助隊のスタンバイを…」

 手早く応答して、受話器を下ろしたリツコは、緊張した面持ちのままミサトを見る。

「予兆が観測されたわ。帰還者よ」

 そう言って、リツコは立ち上がった。

 そこには、自らの罪におののく哀れな女の顔はない。

 ただ、生きようとするものを救い上げようとする技術者の表情だけがあった。




「状況はどうなってるの?」

 白衣を纏い、リツコが飛び込んだ先は、モニターに埋め尽くされた部屋だった。

 正面の一際大きいモニターには、帰還の舞台となる第三芦ノ湖が大きく写し出されている。

 引き付けられるように目に入ったその光景にリツコは絶句した。

「…そんな…」

「何よっ!! これっ!?」

 後を追うようについてきたミサトも、そこに写し出されている光景を見て叫び声をあげる。

 そこに写し出されていたのはいつもの光景ではなかった。

「帰還って、こんな中帰ってくるっていうの?」

「前例がないわ」

 断ち切るよう答えたリツコの声はひどく堅い。

 数え切れない程の帰還者を迎えたリツコですら初めて見る光景。

 まるで嵐の渦中のように渦を捲き荒れ狂う湖面。

 血を流し込んだと表現される水面からは赤い水柱が立ち上り、低く垂れ込めた雲からは稲光が走る。

 奇妙なのはその異常の範囲が、湖面上空のみ限定されているという事だった。

 囲む森の空は、この季節には珍しい程晴れ渡って、青空さえ覗いていた。

 音声のないリアルタイム映像は、現実から遊離したまるで作られた映像のようで。

「まるで、地球創造ね…。いつからこんな状況に?」

「3分前です。それまでは、通常の変異シフトで移行していました」

「なんて事…。これじゃあ、救助隊も近付けないわ…」

「気圧、急速に下降中。磁場も乱れてますね…。…何なんだ、これは一体…」

「局地的な電磁波撹乱も発生しています。影響圏内の観測機器及びカメラはすべて沈黙。これ以上の接近は無理かと…」

 矢継ぎ早の報告を受けながら、リツコは親指の爪を噛む。

 全てが彼女の理解の範疇を越えた事態だった。

「過重重力の臨界を越えましたっ!! 救助隊の避難命令を…っ!! 博士っ!!」

 刻々と変り続ける情況を観測している職員が悲鳴のような声を上げる。

 同時に、モニター内の映像も更なる異常を写し出した。

 赤い水柱の向こうで風景が歪む。

 それは気圧の変化による視覚的効果ではない事は、サブモニターに写し出される重力異常の模式図でも明らかだった。

「安全圏まで後退させてっ! 定点カメラはまだ生きているわねっ!! 歪曲点のクローズアップ!! 他のカメラをサポートに回してっ!」

 叫ぶようにリツコは指示をとばす。

「空間が歪んでいる…? 何が起こっているの…一体…?」

 呆然と呟くミサトの声を聞く者はない。

 極限まで大気を圧縮し、空間すら歪める力が一体何処からやってくるのか。

 誰もが目の前の事態を受け止める事ができない。

「何だっ! あれはっ!?」

 一際高く怒声のような声があがる。

 その声に釣られるように、遠望からズームに切り替わった画面を見てミサトは絶句した。



 酷いノイズを交えながらも、漸く捕らえる事のできた異変の中心部。

 それは、美しくも異様な光景だった。

 荒れ狂う波の上、時折奔る雷光を弾く1対の翼。

 鳥のような羽毛を幾重にも重ねたそれは、源を隠すように交差している。

 深紅と黒の混在する風景の中で、一際輝くその色彩は鋼の光沢を持つ黄金。

 モニター越しの比較対象すらない湖の上でも充分に巨大である事が分かる。

 恐らくその奥に隠れる持主よりも優に数倍はあるだろう。



「…翼…?」

「あの時と同じね…」

 ミサトの声にリツコの声が重なった。

 だが、ミサトに問い返す余裕はない。

 目の前で展開される光景を情報として消費するだけで手一杯の状態だ。

 音のないライヴ映像の中で、閉じられていた翼がゆっくりと開き始めた。

 逸らす事もできず、ただ魅入られるかのように視線が釘づけになる。

 いつの間にか、室内の喧噪は消え去っていた。

 誰もがその奥に在るものを見極めようと目を凝らす。



 そして、永遠にも近い沈黙の果て、翼は完全に開き切った。

 足元から膝、腰、胸を経て最期に頭部。

 それを何と形容すればいいのか?

 それは恰も神前に立つ熾天使のごとき様相で。

 水面に対して垂直に立つそれは、背より生えいでるものを除けば姿は明らかに人間の形態を持っていた。

 それも、酷く華奢な少年の姿でしかない。

 癖のない柔らかそうな髪は、湖面に白い波濤を重ねる強風の中でも微動だにしない。

 身に纏うものは、白いシャツに黒いズボン。

 状況に全く不釣り合いなその辺の中学生の制服のようなそれは、嘗てミサトやリツコが見慣れたものだった。



「…うそ…」

「…そんな…」

 ミサトとリツコの声は、沸き起こったどよめきにかき消された。

「…シン…ジ…君…?」

 呆然と呟いたのはミサト。

「まさか、ありえないわ…」

 否定するリツコの声にも力はない。



 その言葉を受けるように、少年の形を持ったそれはうつむけていた顔をあげた。

 あの永遠に続くかと思われた灼熱の季節を過ごした14の時、そのままの姿で。

 少女のような、と嘗て形容された整った線の細い造作さえ変らない。

 茫洋としながらも僅かに悲し気な眼差しは、どこかこの世の者ではない雰囲気を漂わせていた。

 少年は右腕をあげる。

 それの呼応するかのように、幾つもの水柱が収束する。

 水柱同士が互いを喰らい合い、水面で舞踏を舞う。

 やがて、巨大な一つの水柱が形成されるに至って、人々は気付いた。

 この異変を引き起こしたのが誰かということを。



 異形の少年。

 異形の力。

 何ゆえに。

 何を為そうと。



 誰かを迎えるように、更にその両腕を広げる。

 幽かに口元が動く。

 淡い笑みを浮かべて。



 その所以を何人の人間が捕えたか。

 ミサトだけがその意味をはっきりと捕らえる事ができた。

 現場を渡り歩く捜査官としての経験が、彼女にそれをさせた。

 半ば無意識のうちの読み取った唇の動きは、確かに一つの意味を持った言葉を紡いでいる。

『おかえり、あやなみ』

 彼は確かにそう言った。



「…シンジ…君」

 ミサトは呟く。

 今度は疑問ではなく確信の意をその内に込めて。

 あの事件以来、変る事のなかった湖の色が急速に減退していく。

 何千人もの命を溶かし込んだ命の色。

 赤い海がその力を失っていく。



 それが意味する所はただ一つ。

「…まさか…、レイをサルヴェージするつもりなの…。彼は…」

 ミサトの再度の呟きにリツコが振り返った。

 何かを言おうとするが、それは言葉にならない。

 リツコは知っている。

 それが、絶対に不可能である事を。

 補完計画の要として、偽りの母なる女神の役割を背負わされた少女は、その希薄な自我すら分解されて赤い海の基盤となった。

 彼女は今尚、彼の命の海の唯一の生贄として、最期の1人が帰還するまで実体化は不可能であるとされている。

 だが、現実にその障壁は異形の少年によって突破されつつあった。

 この非現実の光景の中で。



 水柱の表面が盛り上がる。

 既に、色彩はその部分にしか残ってはいない。

 限り無く濃く、黒にも近い色に凝縮された命の水。

 それは、次第に少年と同じ程の大きさの塊へと姿を変えていく。

 重力に逆らって天に登る水の壁に刻まれたレリーフのように。



 タイミングを図るように少年は水の壁に両の手を触れさせる。

 僅かな、本当に僅かな逡巡の表情が、少年の横顔を過る。

 けれど、それは、ほんの一瞬でしかなく。

 そして、一気に両腕でその部分だけをえぐり出すように掻き取った。

 何よりも愛しいものを抱き締めるように。



 瞬間、支えを失ったかのように水柱が崩壊した。



 戻ってきた重力の軛に従って、何万トンに及ぶ水塊が次々に水面に激突する。

 同時に上空に巻き上げられた水が、激しい雨のように湖面とその周辺の地表を叩き始めた。

 莫大な水が移動する気圧の変化を受けて、モニターの画像が乱れる。



 つかの間の断裂。

 視覚以外の全てを封じ込まれたも同然のリツコ達にとって、その僅か数十秒がどれ程長かった事か。

 漸く映像が回復した時、誰もがその光景に目を奪われた。

 あれ程激しかった嵐は、まるでそれ自体がなかったものであるかのように静まっていた。

 上空に垂れ込めていた雲は一つとしてなく、冬の陽射しがきらきらと透明な湖面を照らし出している。

 その光の中で、少女を横抱きに抱いた有翼の少年。

 力なく目を閉じた少女の色彩は白。薄蒼い色を混ぜた銀の頭髪は、彼女が誰であるかを明確に指し示している。

 恐らく目蓋に隠された眸は深紅に彩られているはずだ。

 見守る少年の浮かべる淡い笑みは限り無く透明で、酷く悲し気にすら見えた。

 まるで、性別を入れ替えたピエタのように。

 少年は、一度だけ目を閉じて少女に頬を寄せる。



 祈るように。

 語りかけるように。

 微笑むように。

 そして、嘆くように。



 神聖な儀式のようなこの上もなく幻想的な光景は、だが、数秒のものでしかなかった。

 少年が離れると同時に、すうっと少女の身体が、湖岸に向かって滑り出す。

 波打ち際から遥かに奥、決して波に濡れない所にふわりと着地するまで、少年はその様を見守っていた。



 愛おし気に。

 悲し気に。

 やがて、少年は眠る少女に背を向ける。

 何かを振切るかのように。



 静かな声が復旧した集音装置を通して流れ始めた。

『ミサトさん、リツコさん。そこにいるんでしょう?』

 忘れもしない声。

 声さえあの時のままなのに。

『綾波をお願いします。僕はもうそこには還れないから…』

 穏やかな声は、けれど、決定的な離別の宣告で。

 何故、分かるのかなどという疑問も本当に彼なのかという疑惑も、瞬時にミサトの中から吹き飛んだ。

「シンジ君っ! シンジ君っっ!! シンジ君っっ!!!!」

 リツコを押し退け、ミサトはモニターに駆け寄る。

 ミサトの悲痛な声を彼の地に届ける術はない。

 けれど、彼女は声の限り叫ぶ。

 モニターの中の異形の背を向けた少年に。

『お願いします。今までの分、きっと幸せにしてあげて下さい』

 その叫びを断ち切るように、少年の声がまた流れた。

 その身を異形に堕としたとしても、変らない優しい声が。

 その手で数千人の人間の命の糸を断った事を全く感じさせない、柔らかな響きで。

 ミサトは理性よりも感情で、理論よりも直感で理解する。

 これが、少年の最期の挨拶である事を。

 現世との繋がりを永遠に断ち切る決別の言葉である事を。

『さよなら』

 その声が終わらぬ間に、淡い黄金の光が少年を覆う。

 末端から徐々にその光輝は強まっていき。

 そして、少年の姿は無数の光の粒子となって散じた。

 後には何もない。

 ただ、明るい光が満ちる冬の光景だけが後に残される。



 陽の光が透明な湖水を照らし、常緑樹の深い緑が陰を落とす。

 そんな良くある日常だけが。



 砂浜に静かに横たわる少女だけを、非現実の残り香として。

 

「…気圧、磁場ともに正常範囲です。救助隊の再出動を要請されますか…? 赤木博士」

 ミサトの啜り泣きの声が響く指令室の中に、逸早く正気に戻ったオペレーターの声がそれに重なる。

 叩き込まれた手順そのままに。

「…生存者の回収と現場の調査を…。救助を最優先にして…」

 ようように絞り出されたリツコの声は、一気に十数年の年を越えたように酷く嗄れていた。

「それと、できる限るの資料の収集を…。なお、この一連の件に関しては、…現時点をもって特例法第7条第2項の規定により一切の口外と情報流出を禁止します…」

 それだけを言って、リツコは背筋を伸ばして前方のモニターを見据える。

 何一つ見逃す事を自らに禁じるように。



 モニターの中に重装備の救助隊が現れる。

 あの衝撃的な光景を間近で目撃しながらも、彼等は職務に忠実に少女の状況を確かめ、担架に載せて現場を離れる。

 帰還者救助の為の本部になっている旧NERV残存施設まで、僅か数分。

 後幾許の猶予もなく、リツコは救急隊員から帰還者の現況を知らされる事になるだろう。

 自らが製作した救出回収要領の手順に則って。



「私達は…無力…だわ…」

 歯を食いしばって、リツコは誰ともなく呟いた。



「…リツコ…」

 涙で化粧をぐしゃぐしゃに崩したミサトがリツコを見上げる。

 疲れ果てた顔は彼女も同じ。

 ただ、一つ違うのは、またも彼女が涙を流す機会を逸した事だった。






               −第147次帰還者回収作業報告−


 2019年2月19日午後3時12分、1名の帰還を確認。

 身体的特徴及び旧NERV残存資料により、当該人物を綾波レイ(事件当時14歳)と断定。

 本人は精神的混乱が著しく、長期の入院加療が必要と思われたため、直ちに関連施設に収容。

 また、事情聴取については、前述の事情により、現時点では不可能である為、後日、本人の
状態の安定を待って再度行う事を担当各員と共に確認。

 詳細な報告については、後日改めて行う事とする。

 なお、本作業をもって帰還者回収計画を打ち切りとし、以降、当件の全ての調査研究は第三
新東京市学園都市大学に引き継がれるものとする。

 新たな調査計画については、別添をもって報告と代える。



 2019年3月1日


                        帰還者回収計画総責任者:赤木リツコ








 湖面は今日も、陽光を受け、静かにたゆたう。


 だが、その湖から人が現れる事は、二度となかった。





gospel under the bluesky
chapter 0 the case of last returner


end



to be continued next
chapter 1 blue bird crestaa



とても親しくさせていただいている、
みやこねえさまこと叶 京(かのお みやこ)さんからの投稿をいただきました。

この「gospel under the bluesky」は、ものすごい大作になりそうです。
サードインパクトの頓挫――還り来たもの、そして還らぬもの。
低き昊(そら)の地上で、彼女と彼は出会う・・・(おっと、ここから先はヒミツ!!)

うちみたいなところでお預かりできて光栄のいたり(大恐縮)

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