――ぱん、ぱん、ぱんっ。
「ぐわっ」
――たたたっ、たたたたたんっ。
夜の闇に乾いた銃声が連続して響き、やがて静かになった。
「チェック・メイト」
影の中からゆらりと姿を現した金髪の美女が、氷のような蒼い瞳で彼を見つめている。
「お、お前は、お前達は・・・?」
鈍い光を放つ銃口に男を捉えたまま、黒い瞳をした少女が呟いた。
「私達は・・・ノワール」
魂さえ凍りつくような冷たい微笑を浮かべた女と、人形よりも無表情な東洋人の少女と。
「ノ、ノワールだと?!」
聞くも忌わしい美女の姿を借りた死神――『黒き手のおとめたち』の名を耳にした男は、驚愕に目を見開いた。
「Adue・・・」
・・・ぱん。
「終わったわ。帰りましょう」
男が床に崩れ落ち、澱んで黒く見える血の海がカーペットに滲んで陰惨な抽象画を描いてゆく。無口な相棒の黒い瞳を一瞥して、金髪の美女――ミレイユはきびすを返した。
「ええ」
霧香も油断なく構えていた銃をポケットにおさめ、連れ立って部屋を出る。階段にさしかかったその時。
――たたたったたたたたたたっ。
「!!」
敵がまだ残っていた。散発的に乱射されるマシンガンをさけて、ふたりは壁を楯に体勢を整え直した。
『1・2・3』
アイコンタクトでタイミングをはかり、一気に飛び出す。
――ぱんぱんぱん、ぱんっ。
「うおっ」
悲鳴が途絶えた瞬間、階段の縁ぎりぎりを足場にした霧香の身体がぐらりと傾いた。足許に散乱していた薬莢を踏んでしまったのだ。
「えっ、あ・・・きゃっ?!」
どだだだだだ、だん!
「きっ、霧香?!」
あたりは元の静けさを取り戻した。 踊り場では、階段から落ちた拍子に頭を打ったらしい霧香が倒れている。
それにしても。
薬莢を踏んで階段から落ちるなど、霧香らしくないへまをやらかしたものだ。銃を手にしたままミレイユが階段を駆け降り、倒れ込んだままの霧香の顔を覗き込む。
「霧香、ちょっと霧香ったら!!」
頭を打っているらしい時に身体を揺すると却って危険なことを、ミレイユは経験的に知っていた。
「大丈夫?」
「う、ん・・・」
そっと頬を指先で叩いて注意を引くと、霧香がうめき声をあげて小さく身じろぎした。ミレイユは、反応が返って来たことにやや安堵する。
「立てる?」
「だい・・・丈夫・・・」
ふらりと、ぎこちない動きで霧香が身を起こした。しかし、その足許はいかにも頼りなくぐらついている。
「帰るわよ・・・歩ける?」
「・・・ミレイユ、」
『そういや、この子はこういうことには慣れてないんだっけ』
「ほら」
「・・・ごめん、なさい・・・」
ミレイユは霧香の腕をつかみ、慎重に肩を貸した。霧香の鼻先を、ミレイユの愛用する香水の香りがかすめていった。
『エゴイストの香り・・・でも、ミレイユはエゴイストじゃない・・・』
「タクシー使って帰りましょうね」
『・・・こんなに、やさしい・・・だけど、いつかは・・・わたしは・・・』
やがて程近い街路から、1台のタクシーが走り去った。
Noir Episode #X
「ホリデイ」
――Hurry Merry Go Round――
Written by Yumeno Kashiwazaki
ふたりがやっとフラットに帰りついたのは、もう夜明け前も間近い時間だった。
ベッドに寝かせてなんとか服を脱がせてやると、霧香の身体から冷汗が噴き出していた。
子供の頃ならいざしれず、10代も後半になれば身体は大人だ。大人になってから不意の転倒などで全身を強く打った場合、ショックの後遺症で高熱を出すことが多い。
「さむい・・・」
がたがた震える霧香の身体をタオルで拭いてやり、羽布団にくるんだ頃にはミレイユの方がぐったりと疲れ果てていた。
「・・・はぁ・・・」
羽布団をかぶって胎児のように丸まった霧香をちらりと見て、余った毛布と枕を手にしたミレイユはソファに身を横たえた。
「ああ、疲れた」
いくら生業とはいえ、しょせんは命のやり取りだ。殺るか、殺られるか――この仕事以外に彼女ができることはないのだ。命からがら着の身着のままでコルシカを出て、しかも巨大な敵を持つ身なのだから・・・
いつしか、ミレイユも浅い眠りに落ちていった。
「・・・っはよう、おっはよう・・・じゅーる・・・」
『?』
何やら調子っぱずれな歌声のようなものが、ミレイユの夢の中へ入り込んで来た。
「・・・レイユ、ミーレイユ・・・っはようミレイ・・・」
『なに?』
とたとたとステップの足音?のようなものが耳に入るに従い、ミレイユの意識は急速に覚醒した。
「きょうもげんきにぼんじゅ〜る♪」
すがすがしい朝日が顔にあたっていることに気づいて、ミレイユは日射しをさけるために掌をかざし、そっと薄目を開いてみた。と。
「くるくるまわって・・・おっはよぉミレイユ♪ヘイ!」
――じゃきっ☆
「・・・アンタ・・・朝っぱらから一体なんなのよそれはぁぁぁぁっ」
寝起き早々ミレイユが目撃したのは、同居人の信じられない姿だった。
「おはよう〜♪」
「・・・ほんっきで・・・撃つわよ」
「やっだぁ、そんなものしまってよぉ」
「はぁ?!」
どこから手に入れたのかは知らないが両手に派手なマラカスを持った霧香が、くるくる回りながらミレイユの枕許で踊って(?)いたのだった。
しかも満面の笑みで。
「・・・いっぺん、死んでみる? 今なら特別出血大サービス、無料で一発ぶち込んであげるけど?」
確かにその笑顔は可愛いのだが、起きた直後にこんな光景を見せられたら、普通は瞬間的に悶絶死しそうなものだ。死なないで目覚められたことだけでも、自分をほめてやろうとミレイユは思った。
「ところでアンタ、頭の具合はもういいの?」
急に催してきた酷い偏頭痛をこらえつつ、ミレイユは同居人に聞いた。
「はぁいっ! もうだいじょーぶでぇす♪」
しゅたっと真っ赤な(赤をベースに極彩色でサイケデリックな模様入り)マラカスを握った右手を振り上げ、霧香はでへへ〜っと笑った。そのまま、またくるくる回り始める。
「やめなさいっ!!!」
がばっと寝ていたソファから起き直り、ミレイユは思わず青筋を立てて怒鳴った。
「えー? せっかくミレイユのこと楽しく起こしてあげよーと思ったのにぃ」
ぷぅ、と霧香がふくれてみせる。いや、待てよ? なんだ? 何なんだ? このみょーに表情豊かなイキモノは?――と、ミレイユの頭の中に疑問符が点滅する。
『・・・まさか、いくらなんでも、ねえ。そんな日本のTVマンガみたいなことが実際に起こったら・・・起こった、ら、って・・・起こってるのよぉぉぉぉぉ?!」
陳腐お化けがムーランルージュでフレンチカンカンを踊り出しそうな考えに至って、ミレイユはげんなりしてしまった。どこからか、オッフェンパックの『天国と地獄』のフィナーレが聞こえて来るような気さえする。
「・・・お願いだからやめてちょうだい・・・」
「たのしーのにぃー」
『いくらこの子が階段から落ちて頭を打ったからって、これはないでしょう、神様!』
ミレイユは心の中で滂沱の涙を流しつつ、天にまします神様とやらに愚痴のマシンガンを連射した――。
「ねぇねぇねぇはやくあさごはん食べにいこー♪」
ミレイユを叩き起こしてからというもの、妙なテンションを保ったままの霧香は子犬のように彼女の周囲をまつわりつく。
「判った、判ったから・・・」
言いながら窓をあけると、透明な日光がさんさんと降り注いでいる。今日もパリは暑くなりそうだった。
「いい天気」
ミレイユは洗いざらしの木綿のシャツにジーンズをはいて、ハンドバッグを手にした。霧香はいつもの通りの格好だ。
「フランシスのお店でいいかしら?」
「うん、クロックムッシュー」
「はいはい」
もう苦笑するしかない。いつもの無口な霧香はどこへいったのやら。
「クロックムッシュとー、りんごのジュースとー、それからツナの・・・」
「あんた朝からどれだけ食べる気?」
お腹がすいたのー、とまた霧香がちょっと唇をとがらせる。
「だめ?」
やれやれ・・・先が思いやられるわ。ミレイユは思わず天を仰いだ。
――ミレイユお気に入りの、フランシスのカフェ。広場に設けられたテラスではパラソルが日光を程よくさえぎり、思い出したように風が抜けてゆく。
デザートのフルーツヨーグルトをぱくつく霧香とすっかり冷めてしまったカフェオレボウルを前に、ミレイユは考え込んでいた。
『結局――私達には何も判っていないんだわ・・・洒落を兼ねた陽動のつもりで名乗ったノワールという名前の意味も、ノワールが何なのかも。そしてソルダ・・・多分このコは・・・ソルダに記憶を消された・・・でも、いったい何のために?』
「ミレイユ」
物思いを破られて顔をあげた彼女の眉間を、霧香が指差す。
「――シワ♪」
「!!!!!」
奔放なラテンの血を色濃く受け継ぐコルシカ出身の美女に向かって、何たることを。
「き〜り〜〜〜か〜〜〜〜〜〜っ」
それでも眉間を指先でもみほぐしつつ、ミレイユは目の前の少女を睨んだ。
「ねえミレイユ、笑って?」
霧香は、あくまでも無邪気だった。スプーンをくわえて、けろりとした表情である。
「――そうね」
苦笑未満のため息をついて、ミレイユはなんとか唇に微笑を浮かべることが出来た。イライラしてもしょうがない。
「今日はどこへいきましょうか」
その時、賑やかなパレードの一団が広場を通りかかった。
「――カーニバルだよ、カーニバルだよ・・・サーカスに遊園地、楽しい楽しいカーニバルだよ」
ブラスバンドの前後で、けばけばしく安っぽい衣装の一団が踊りながらチラシをまいている。踊子やクラウン(道化師)たちは、おどけたダンスをしながらカフェの店先まで入り込み、テーブルについた人々に愛想を振りまいた。
「可愛い異国のお嬢さんと麗わしいマドモアゼルに」
クラウンの一人が彼女達のテーブルに近寄り、さっと手を振った。何もなかった手許から色鮮やかなボンボンがぱらぱらと、思わず手を出した霧香の掌にこぼれ落ちた。
「どうぞ、御来場を。お待ち申し上げておりまする」
おどけつつ、しかし深々と一礼をして、道化師は席を離れてゆく。霧香は眼を丸くしたまま、その背中を見つめていた。
「行ってみましょうか」
「え、いいの?」
霧香の弾んだ声を聞きながら、ミレイユは郷愁の中にいた。昔、そう、もうずっと昔・・・故郷でカーニバルへ連れていってもらった時のことを。
どこかくすぐったそうな顔をした父と、美しく華やかでいつも微笑んでいた母と、優しかった兄――そして、とりわけ彼女を甘やかし、もう一人の兄のように可愛がってくれた歳若い叔父と――それは、大切な幸福のひととき。
「せっかくですもの」
霧香の掌のボンボンをひとつつまみ、鮮やかなブルーの包み紙を剥がして口に放り込む。
「あら、美味しい」
ボンボンは、切なくなるほど甘く懐かしい味がした。
「カーニバルかぁ・・・懐かしい」
霧香も、残ったボンボンをポケットにしまいこみながら席を立つ。
パレードの後をついてゆくともなしに広場を離れてゆく、二人の背後を見つめる何者かの視線に気づくこともなく。
カーニバル――というよりは、巡回遊園地といった方が判りやすいだろうか? サーカスやゲームの小屋、大道芸人たちが一団となって街から街へと渡り歩きながら興業してまわるのを、カーニバルと呼ぶ。本来は謝肉祭のことだが、転じて「お祭り」全般をさすようになったらしい。
「わぁっ」
霧香が歓声をあげた。
広場の中央には小振りの観覧車、その足許にはぐるぐる猛スピードで回るブランコの乗り物などの遊園地。ぎっしりと立ち並ぶ屋台からは、食欲をそそるジャンクフード独特の匂いが漂う。
コットンキャンディ、ホットドッグ、ハニーポップコーン――どぎついまでにカラフルなジェリービーンズにヌガー、果物の砂糖漬けやキャンディなどなど、およそ健康にはよくなさそうな、しかし不思議と心惹かれるお菓子たち。
「ミレイユ、ねえ、あれ」
「ん?」
くいくいと霧香がミレイユのシャツのそでを引いた。霧香が指差した方向に出ていたのは、射的の屋台だった。
「あれがほしいなー」
霧香の目線の先には、小さな熊のぬいぐるみが景品台の上にちょこんと座っていた。こういう景品にしては珍しく、可愛い顔をしている。
「とれないって」
「ええー?」
「ああいうのはとれないようになってるの」
「ミレイユなら落とせそうなのにー」
ついに根負けしたミレイユは、屋台の前へと歩いていった。くるりと霧香を振り返り、軽く睨む。
「1回だけよ」
屋台の主人はにやにやしながら、ミレイユから代金を受け取った。
「マドモワゼル、運があるといいですねえ」
先端にコルクをつめて撃つようになっている、ちゃちなおもちゃのライフルだった。小さなコルク弾は全部で十発。
『これじゃあ、いかんせん無理だわ。多分弾道もめちゃくちゃだろうし・・・霧香ったらもう』
――ぱかん。
「ああ、惜しいねえ」
コルク弾はぬいぐるみの耳をかすめて後ろへ飛んでいった。
「ミレイユ、がんばって」
霧香が、後ろで声援を送る。さっきの一発でだいたいのクセはつかんだものの、何しろ弾はコルクだ。不安定なのは致し方ない。
『もう、勝手なんだから』
しかし、次からがミレイユの本領発揮だった。当たりどころはばらばらだが、なんと最初の一発を外してから、8発目まで全弾命中させたのだ。もっとも、彼女の本業を思えば多少不本意な出来だったかもしれないが。
「もうちょっとだよぉ」
「あと一発しかないのよ?」
熊のぬいぐるみのお尻は、かろうじて台座に座っている状態になっていた。当たりどころさえ良ければ、落ちそうだ。
――ぱかん・・・・・・ことん。
見事に、小さな熊は台座から転がり落ちた。
「マドモワゼル、お見事」
ぱちぱちぱちと拍手をしながら主人はぬいぐるみを拾い上げ、ミレイユのライフルとひきかえに手渡した。
「ほら」
「わーい」
嬉しそうに小さな熊を抱えた霧香とミレイユがごった返す人込みの中を歩いてゆくと、賑やかなシンフォニックオルゴールの音が流れて来た。
「メリーゴーランド!」
二人の目の前に現れたのは、小さいながらも立派なメリーゴーランドだった。白い馬、葦毛の馬、黒い馬。金や銀のたてがみに花をつないだ手綱を飾り、きらきらと輝きながら回っている。
「ねえ、乗ってもいい?」
「いいわよ」
本当は、カーニバルのメリーゴーランドは子供の乗り物だ。しかし霧香は小柄だし、歳よりはるかに幼く見える。ミレイユは財布からいくつか硬貨を取り出し、霧香に渡した。
「乗ってらっしゃい。私はここで見ててあげるから」
ぱたぱたと霧香が乗り場へと走ってゆく。ミレイユの目に、霧香の背中とあの日の自分がダブって見えた。あの日にはもう、帰れない――生きてゆくためにこの手を、黒く汚してしまったから。
「・・・?」
何かの気配を感じて、ちりちりとミレイユのうなじの毛が逆立った。そっとコンパクトをハンドバックから取り出し、鏡越しに背後を伺ってみる。しかし、楽しげな親子連れやカップル、少年や少女の雑踏があるばかりだった。
「ミレイユーっ」
楽しそうな霧香が、音楽に乗って宙を駆ける黒い馬の上から手を振っていた。ミレイユは慌てて笑顔を作り、霧香に手を振り返す。と。
――ぴゅん。
ミレイユの耳許を、熱い波動がかすめていった。
『!』
・・・ガチャン!!
メリーゴーランドの中央の柱を飾る鏡が、粉々に砕け散った。
「きゃーっ」
「わあっ」
「いやああああ」
異常を察知した係員の手でメリーゴーランドが急停止し、乗っていた子供たちが木馬から飛び下りて出口へと殺到する。平和なカーニバルの風景は、瞬間的に阿鼻叫喚の巷と化した。
――ぴしゅっ、びしっ!・・・ガチャガチャッ、ガチャン!!
撃ち込まれる弾丸に砕かれた鏡の破片が、逃げ惑う子供の頭上に容赦なく降り注ぐ。
「ママ、ママぁー」
「ハティ、ハティ! どこ?! ママはここよ!」
「こわいよー」
「ジャン! マリエ!!」
怒号と泣き声、走り回る足音、のんきに間延びした、離れた他の屋台の出し物の音楽――このままでは自分たちが狩られてしまうだけではなく、関係ない人を巻き込んでしまう。
無関係な人間を巻き込みたくないと考える側にだけ一方的に不利なこの状況に、ミレイユは舌打ちした。
「ちぃっ」
ミレイユは鋭い目で周囲を見渡し、敵の姿を探った。しかし混乱状態の人込みは、刺客の姿を容易に隠してしまう。
「きゃあっ」
「霧香?!・・・霧香!」
「ミレイユーっ、こわいよぉっ」
「あんたそんなとこでなにやってんのっ?!」
「こわいよぉっ」
霧香は、白い木馬の陰で子供のようにべそをかいて震えていた。
「なんなのよ、もうっ」
逃げまどう人込みを縫って、ミレイユはメリーゴーランドに必死で近寄った。ポーチから銃を取り出し――しかし、撃てない。
「どこに隠れてんのよ、卑怯者!」
ミレイユには、敵の正体がおおよそ推測できていた。昨日地獄に送った組織の関係者・・・だけではない。その復讐に、便乗している存在がいる。
『――ソルダ』
その時、ミレイユの視界のすみで『異なる』動きをするものがあった。
「!」
――パン!
ミレイユは反射的に「それ」に向けて発砲していた。闇を生きるために研ぎすまされた 『狩るもの』の本能が、その僅かな動きに反応したのだ。
「ぐおっ」
人込みの奥で崩れ落ちたのは、カーニバルには不似合いなスーツの男だった。
『・・・やっぱり』
ミレイユの視線が、獲物を狙う猛禽のそれに変わった。一瞬の虚をついて錯綜する人込みの間隙を駆け抜け、頭を抱えてうずくまる霧香の隣へ滑り込む。
「逃げるわよ!」
霧香の腕をつかんで木馬の陰から強引に引きずり出し、怒号の飛び交う中をジグザグに走り抜ける。彼女たちの軌跡を追って、断続的な銃声と悲鳴が背後で弾けた。
――と。
「!!」
霧香の手を引いたミレイユの行く手に、カラフルな衣装のクラウンが立ちふさがった。
「どきなさい!」
にたり、と、クラウンの仮面のような化粧が歪んだ。その左手が目にも止まらぬ速さで動き、ひゅん、と銀色の光芒が走り抜けた。
「!!」
背後に霧香をかばうのが精一杯だった。ミレイユはぶざまに体勢を崩し――ぱらぱらと、銀の光芒に持っていかれた金髪が風に舞う。
『のわーる・・・そるだニ逆ラウナ・・・。千年ノ闇ハ、オ前タチガ思ウヨリハルカニ昏ク、深イノダカラ・・・』
人間らしい抑揚のまるでない、しゃがれた声。
「・・・千年の、闇・・・」
『そるだノ申シ子ヨ、何故そるだニ逆ラウ? 闇ニ染マシリ我等トハ異ナル、闇ニ祝福サレシ宿命ノ子デアルオ前タチガ』
闇に祝福された、宿命の子――。不意に周囲の全ての音が遠のいたような感覚に襲われたミレイユは、体勢を立て直すことも忘れて凍りついた。
『のわーる・・・其ハイニシヘヨリノ宿命ノ名。死ヲ司ル二人ノヲトメ・・・黒キ御霊ハ迷イ児ヲ、劫火ノ淵ニイザナイ給フ』
たっぷりした衣装の袖の襞の間から、ちらりと見えたものは。
「ミレ・・・!」
・・・ぱぁん・・・
二つの銃声が交錯した。
「・・・」
間一髪。操り人形の糸が切れたように、くたくたとクラウンの身体が地面に崩れ落ちる。 しかし、火を噴いたのは、ミレイユの銃ではなかった。
「霧香・・・」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、霧香が立ち尽くしている。
「ミレイユ・・・わたし――」
その手に握ったままのMー1934の銃口から、硝煙の蒼い煙がまだ薄く立ち上っていた。
「わたしはやっぱり・・・」
乱れた金の髪を後ろに振り払い、立ち上がったミレイユはため息をついた。
「休日はこれで終わりね」
「・・・ミレイユ、」
しかし、彼女はくるりときびすを返して。
「帰るわよ。これ以上厄介ごとに巻き込まれないうちにね」
空々しい流行歌や雑多な音の流れる雑踏に、ふたつの影がまぎれて、消えていった。
暗い天井を見上げると、くるくると極彩色のメリーゴーランドが回っているのが見える。シンフォニックオルゴールの音色と、いまだ何の憂いも持たない子供たちの笑い声が聞こえて来る。
静かに閉ざされたミレイユのまぶたの縁からひとしずくの涙がこぼれ落ち、枕に吸い込まれて消えた。隣では、霧香の静かな寝息。
「・・・私はもう、帰れない・・・あの場所へは、決して・・・」
小さくつぶやいてみる。
「わたしがいるわ」
ぽつりとかすかな、声。いつかくる『宿命の日』まで闇の道を共に歩く、道連れの声だった。
「そうね」
たとえ地獄の劫火に焼かれる苦悶を味わうことになろうとも、果敢無く散ることになろうとも、生き溺れつつこの道を歩くより他にないのだから。
・・・Adue・・・
・・・私の愛した、全てのものたち・・・
・・・永遠に・・・
Fin.
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