私のひそかな願いを知る人はいない。 私の願い、それは決して叶ってはいけないものだから。 それでも私は願い続ける――私の願いがいつか叶うように、そして、未来永劫、決して叶うことのないように、と・・・。
Written by 柏崎夢乃
決して叶うことの許されない願いごとを抱いたまま、私は微笑を浮かべ続ける。 なぜこんなに微笑み続けていられるのか、自分でも判らない。 ひとりきりになった途端に口許からすうっと微笑が消えてゆくのが、皮膚感覚で判る。 こんな顔を誰かに見られたくない、それだけが私の微笑む理由かもしれない。鏡の中から見返す疲れた女の顔が、苦い自嘲に歪んでいる。 偽りのモナ・リザ――もちろん、あの謎めいた微笑には遠く及ばないけれど――鏡の中の女に、そんなタイトルをつけてみる。 何もかもなくした愚かな女の、哀しい肖像画。 ほんとうの私は、もう2度と微笑むことなどできないのかもしれない。 雨。 雨は嫌い。 雨は嫌なことばかり思い出させるから――そう、あの日もこんな蒼い雨が降っていたから。 「彼女に告白、したんだ」 「そう・・・それで?」 「うん――『私もずっとあなたが好きだったの、嬉しい』、って・・・それで、一番にきみに聞いてほしくて・・・」 「よかったわね」 「ありがとう・・・みんなきみのおかげだよ。きみがいなかったら、僕はどうしてたか判らない」 「あなたは強いもの。ほんとうは私なんかいなくても大丈夫だったのよ」 「そんなことないさ・・・僕はきみを僕の都合で縛り続けてきたんだよね・・・そして僕はずっときみに甘え続けて、救われてきたんだから・・・」 「わたし、何もしてないわ」 「僕は、たくさんきみに助けてもらったんだ。きみがそうじゃないって言ってもね。きみがいつもそうやって微笑んでいてくれたから・・・だから、ありがとう・・・今度はきみが幸せになる番、だよ」 そう、あの時も、私は微笑したのだった。 彼の輝くような笑顔がまぶしくて、私は瞬間的に心を偽ってしまった。彼を傷つけたくなかった――いや、自分自身が傷つきたくなかった。 喉許にからまった重い言葉が、唇からは別な言葉となって滑り出していた。 叫ぶことも涙を流すこともできなかった。 足許が頼りなく崩れてしまうような目眩に襲われながら、それでも私はかろうじて微笑んでいた。すでにボロボロに傷ついていたみじめったらしいプライドにしがみついて、ようやく立っていた。 ただ微笑む以外に何ができただろう? 何もかもが手後れになってしまった、あの瞬間に・・・。 優しい女のふりをして、ずっと彼のそばにいた。 いつか気づいてほしくて――気づかれぬように細心の注意をはらいながら、そのくせ彼が気づいてくれることを願い続けていた。 もちろんそれが私だけの身勝手な願いだということは、判り過ぎるほど判っていた。 影のように彼のそばに寄り添えるだけで、満足していなければならない自分の「分」ぐらいは私だって承知している。自分に「思われる」資格などないことは、誰よりも自分自身がよく判っているのだ。 彼の思いを知り過ぎるほどに、そう、彼自身よりもよく知っていたのだから。 彼の願いが叶う時、それは私の願いがついえ去る瞬間。 その瞬間を待ち望みつつ、心の底から恐れていた――そして。 蒼い雨の降ったあの日、私が恐れていたその瞬間は訪れた。 それは私がずっと浮かべ続けてきた『偽りの微笑』への、手痛すぎる報いだった・・・。 ついに泣き出してしまった空をあおぎ、ため息をつく。 あの日、私は差し出された傘を拒み、なんとか浮かべた微笑が消え去る前に彼の前から身をひるがえすことができた。 雨の雫が涙を隠している間に、私は走った。 必死だった。 涙を誰にも気づかれぬよう、息をきらし、脇腹が引きつるのもかまわずに、ただひたすら走り続けた。 あの時の気持ちは今も変わるわけではないのだけれど。 もう、私は走れない。 偽りの微笑を浮かべることに慣れてしまったから――自分の心さえ偽ることに、何のためらいもおぼえなくなってしまったから。 そして今。彼と彼女がいる前でも、平気で微笑む私がいる。 他人は私を『優しい女』だという。 私は優しい女じゃなんかないのに・・・ただ『優しいふり』をしているだけなのに。 もっとも、誰からも『優しい女』といわれることは、決してほめられているのではないのかもしれないけれど。 何もかもが私を責めていた。彼を偽り続けてきたから、そして自分を偽ってばかりいたから、そんな目にあうのだと。 雑踏のざわめきは「ごらん、あの莫迦な女を」と声高にわめきたて、電車のレール音は「嘘つきには相応しい罰だ」と執拗に耳許で囁き続けた。 蒼い雨は、私が流しきれなかった涙のように、ただ黙って 降りそそいでいた。 しかし、それが何よりもつらかった。 偽りの微笑の下に隠し続けてきたものを、見透かされているようで。 涙を流せないことを、ひたすら責められているようで。 自分自身に向かってそんな子供じみた言い訳をしながら、私は降りしきる雨の中、傘を差すことなく歩いていた。 もう、とうに走ることはできなくなっていた。 不意に足がもつれ、濡れたアスファルトの上に転んでしまった。ざっくりと擦りむけたひざから、向こう脛へと血がしたたり落ちる。見れば、履いていたサンダルのストラップの留め金が壊れていた。 留め金が壊れたから転んだのか、転んだから留め金が壊れたのか――しかし、そんなことはすでにどうでもよかった。 彼がいないことの空虚さは、何をもってしても埋められない。傷の痛みでさえ、この恐ろしい空虚さにくらべたら、ものの数ではない。 それなのに、私の口許には微笑が張りついたままになっている。 ・・・アナタガイナイ・・・ ・・・ドコニモイナイ・・・ ・・・アナタガイナイ・・・ ・・・アナタガ、スキ・・・ あの日と同じ蒼い雨は、あの日と同じように私を濡らしてゆく。 泣けない私の涙の代わりに、私の頬を濡らしてゆく。 もう、蒼い雨は私をあざ笑うことはない。 蒼い雨は、ただ黙って私を包んでいるだけだ。 それでいいのかもしれない。 ただ静かに降りそそぐ蒼い雨に身をゆだねて、このまま歩いてゆけばいいのかもしれない。 あなたがそう望むのなら 私は微笑んでいよう あなたが、そう望んでいるのだから どこかでなくしてしまった、私の涙を探すために。
fin.
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