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Area.2nd


 やっぱり紅茶を入れるのは僕で、彼女を起こすのも僕の義務――運悪くまた昇ってしまった朝の下に向けて無遠慮に、眠りに魘されずきっと妨げられない安らかな吐息を見せる彼女の背中を押すのは、どうか時間の赦す限りは先延ばしにしてあげたかった僕は、紅茶の甘い香りが彼女を刺激しないように、ベッドに座ったまま窓漉しの斜光から庇護するように背中を丸めた。

 どうしてまた昇るのだろう――痛い…背中に刺し込む光線が痛い。

 それはまったく夜の吸い付くような熱ではない、突き放す力を秘めた針の束だ。

 できることなら、昨夜の余韻を保った僕らのままそうっとしておいて欲しかった。

 約束は、朝がきて夜が明けるように、夜が来て光が静まるように、あたりまえのように許されないと、僕は自分の呼吸も、鼓動も、全てがそう言っているようで、彼女の眠りをも妨げるようで、酷く、耳に障った。不愉快だ――

 まだ、せめてあと十分、いや五分、起きないでいてくれたら、朝が来たことへのせめて最低の憐憫にはなるまいか――。

 眼を覚まさないで。眼を覚ましたら、また痛みを覚えてしまうのだから、まだその瞼を開かないで。眠っていられるならそうしていた方がずっと、胸は痛まないのだから。

 僕は彼女の髪に、恐る恐る、震える指先をそっと這わせた。怖いもの見たさのつもりだったのだろうか? 或いは他の何か? 立ち向かう殊勝な意思でないことは明らかだ。

 「……いかり…くん…」

 彼女の寝返りが、僕の指先を狂わせて、彼女の暖かさを僕に触れさすと同時に、彼女は薄く瞼を開いてすぐに僕の姿を探したのが知れた。

 「…おはよう…碇君」

 まだ少し漂う夕べの残り香に彼女は頬を染めたのだろうか。

 シーツが擦れて聞き慣れない音がたった。

 僕は彼女を起こしてしまった。しかし彼女が、自分が目を覚ましたことに気付いて辛そうな顔をしなかったことは、僥倖だった。

 希望を匂わせる、そんな口許だった。朝日の中でそんな希望からは女性が見え隠れしているような感触さえあった。

 「綾波――」

 「碇君?」

 「おはよう…」

 「ええ…」

 こくり、と小さく頷く彼女。僕は言った。妙な間だった。昨夜の出来事がフラッシュバックする。

 「紅茶、淹れる?」

 「――ええ」

 彼女は短く応えた。

 「…出かける前に、ちゃんと洗っておいた方がいいよ」

 僕は視線を下に落として、控えめに言った。

 「ええ」

 「水でね――お湯だと、…落ちなくなるから」

 「――ええ」

 彼女は短く応えた。

 「――…今日も、少し寒いわ」



 『サードはプラグ深度、−3.7で現状維持。ファーストは−1.4で現状維持』

 『ファーストはプラグ深度、加えて−0.1で現状維持。深度1.5』

 沈思、そして黙考。

 『ファーストはプラグ深度、加えて−0.1で現状維持。深度1.6』

 ――彼女のために――ああ、僕は子供だ。誰は誰のために生きるだろう? 生きることは選択肢の連続で、今の僕はそれを顕著な形で体感している。常に二択、或いは三択――一歩歩むごとに細心の、最善のアンサーを僕は要求される。

 『第103テストは正常に終了。サードはシンクロ44.9%を227秒維持、異常なし。 ファーストはシンクロ41.4%を792秒維持、異常なし。』

 今解くQ、その幾番目。何かを僕がしようと思っても、それが出来るだろうか?

 もしそれが赦されないことならば、諦めてしまうだろうか。

 それとも、やるだけやって僕の無力を思い知るだろうか。

 赦されるなら、彼女と二人だけの世界に行き、そして蓋をして、誰も入れない世界を創ったなら、僕達はそこで生まれて初めて触れ合った笑顔を浮かべるだろう。

 ――二人でどこか、遠いところにいこうよ――

 童話のような語り口でそう言ったなら、現実的な彼女は頷いてくれるだろうか。

 もし…彼女が首を縦に振ったら――僕は彼女を連れて、本当にどこか遠いところに行けるだろうか。連れ戻されるか、殺されるか、どうなるかはわからない。この組織がどういうことをするのかわからないから――

 違う欺瞞だ――彼女が拒絶するわけがないと、心のどこかで冷静さはそう考えている。彼女が僕に頷いて見せることは半ば予知的なイベントに過ぎず、ただ確かな安心感に浸っているだけだ。――こんなものは、選択肢でも何でもない。過程だ。本当に重要な選択肢はどこか別のところにある。

 答えが出ない。

 ――ここは落ち着かなかった。

 身体を暖かく包む感触が、薄暗い液体が、僕の身体に纏わりつくのは、僕をとろけさせようと絡みつくのは、今はただ不快としか認知できない。以前そこに抱いていたような安心感や依存心は、もうそこになかった。

 ぬるい水の中で、それでも泣いているのがはっきりとわかる。

 僕は泣いていた。答えの出ない選択肢にではなく、選択肢すら見出せないことに。

 ――答えは出せない。



 「碇君」

 僕は紅茶の缶を開けて、吸い込んだ。

 テストの数字が落ちたことを、彼女は言葉少なに僕を懸念した。

 「いざとなれば動かせるし、そんな機会もきっともうないから」

 僕達は存在するだけが今のここでの価値だ。それは言わなかった。

 「…――ええ。帰りましょう」

 帰る其処は、もう僕の戻るべきHomeになっていった。ゆっくりと立ち上がる僕を彼女はじっと見詰めた。その視線に、昔のような清純な無感動さを損失してまで、色の付いた女性の感情をたたえてしまった彼女の瞳を、僕は静かに一瞥して微笑む。

 「どうしたの? 碇君」

 今なら、どんな危険な科白もすっと喉から出てくる気がした。

 一頭足で彼女を変えることが出来る。彼女という存在の運命を劇的に変えることが出来る――!

 僕は身震いした。それだけで、僕の喉の奥底は激しく震えをもった。

 「…帰ろう」

 「ええ」

 歩き出す僕の手を彼女がとった瞬間、僕の中で何かが弾けた。

 冷たい。

 優しくて、それでいて冷たい彼女の手は弱々しく僕を鷲掴みにするのだ。――少なくとも今僕の心では、家に帰るという生易しいものではなかった。

 「綾波…」

 「…」

 「どうしよう僕……綾波を、どうにかしちゃうかも知れない」

 「…え」

 彼女の平坦な声は、それでも微かに波打った。

 「もう――ダメ」

 僕は彼女の手を解き、肩を掴んで僕の方に向き合わせた。細い肩にかわいそうなほど食い込む僕の熱い手のひらから鼓動が知られてしまうのではないだろうか――、彼女の顔が直視できない。

 ぐっ、と喉が鳴った。

 彼女の腰のあたりに視線を落としたまま、無言が滞る。

 「このまま帰ったら……綾波の部屋に行ったら…――」

 「…」

 「綾波の――未来を変える…、全てを変え」

 「碇君…」

 彼女は語気を僅かに強めて、この場所にこの科白が相応しくないことを示唆した。常に監視されている場である。

 薄暗い廊下――頼りなく振るえる自動販売機の蛍光灯――闇に光るだろう無数の目が耳が存在することは当然知っていることだった。しかしそんなことはどうでも良かった。今の僕には何より一番、瑣末なことであったのだ。

 彼女は続けようとする僕の唇をふさいだ。

 「ダメ…っ…」

 彼女は哀しげに小さく声を絞りだした。耳元で囁く震える唇に、僕はじっと廊下の先の闇を見据えて耳を貸した。

 「こんなトコロで…そんなこと言ってはダメ…こんなトコロで…」

 「…帰ろう、綾波」

 「え?」

 「それじゃ聞かせてあげるよ。僕の――」

 無言のまま、彼女は僕に寄り添って歩き出した。かつかつという何時もの二組の足音。足音は余韻を残してすぐに消えた。

 「部屋でなら、聞いてくれるんでしょ? 綾波…」

 「碇君…」

 まだ盗聴ということに対して攻撃的なトーンで喋る僕に難色を示す彼女の髪をきゅっと撫でた。

 なんていうことだろう。

 彼女の声を聞いた瞬間だった――。僕の中に怖いものがなくなった。歯の根が合わなくなるほどに根拠のない、強烈な自信が膨れ上がった。次々と灯る希望。全てに成功する気がした。彼女の未来を垣間見た気がした…。

 僕達は闇に途切れた。



 ――僕は全てを話した。彼女は僕の科白を途切れさすことなく全てを聞いてくれた。

 すると無言で彼女は席を立った。黙って視線を追った先の、背中を僕に向けながら、彼女は衣服を脱いでいった。暫くすると、シャワーが床に叩きつけられる音が夜の静寂に一時の休息を与えた。

 夜の帳のそんな切れ間に、空白の淵を見出した――僕は沈んだ。

 ざー…ざー…ざー…ざー…

 流しっぱなしの水音が、僕の思考を薄める。重力に任せてベッドに身体を埋めると少し湿った音と共に深く記憶に染み込んだ香りがふわりと舞い上がった。

 月が見えた。

 青い月――彼女と初めて素肌で触れ合った日と同じ色、そして彼女と初めて痛みを共にした日より少し薄い色。

 月を焦点に収めたまま暫くぼんやりとした空気を眺める。間もなく、生ぬるい湿気が低い方から漂って来て、鼻腔を刺激した。彼女にしては、シャワーの時間が長いと思われた。僕は、失敗だったのだろうか、とも感じた。そこには初めて垣間見える彼女の逡巡が――長ければ長いほどマイナス思考が湧き上がる時間があった。

 唐突にシャワーは止まった。

 無音になった。

 長かった。身構えた僕は静寂に鼓動を荒げた。とても、長く感じた。足音も聞こえない。水音も聞こえない。彼女の体を案じ始めると間もなく、彼女のバスルームのカーテンを開く音がした――その音は棘っぽかった。

 がたん!

 「あ、やなみ…」

 彼女は足早にベッドの僕へ駆け寄った。濡れた肌――満足に水気を拭きとってさえいない髪……床に夥しいしぶきを撒き散らして――彼女は全裸だった。僕が次の言葉を探し出すより早く、彼女は僕の胸に埋まった。――それは彼女の決断だった。

 「碇君ー……」

 高熱に浮かされたように間伸びした彼女の声。

 その一瞬、彼女から滴る冷たい水が、すべて彼女の涙に見えた。

 おびただしい涙を流す彼女が――そこにいると。

 「…ふぅ…」

 もう言葉がなかった。僕は彼女の濡れそぼった背中をきつく抱きしめた。髪から流れる雫が目を濡らして、僕の目にもそれは涙になった。

 冷たい涙を流しながら僕達は必死に絡みついた。

 休みなく、まだ触れていない部分を探す。それが見つかれば、その部分を触れさせあう。そんな風に、僕達は幼く原初的に愛し合った。

 どうしてだろう。

 僕の目に入った水は、だんだん熱くなって目を開けていられなくなった。

 「……ぅ…ぅうぅ」

 額をあわせると、体温と共に震えも伝わってきた。喉が震えて、彼女も泣いていることを知る。声を殺して、喉を震わせて、彼女は泣いていた。

 下半身が痺れる感触。今夜は然程の抵抗も感じなかった。彼女も痛みを感じている素振りは見せなかった。

 「綾波……」

 胸の中で綾波が小さく頷いて返事をした。

 「我慢しないで…泣いても、いいよ……」

 「…ぁあ、あぁああ――」

 「――僕達は泣いてもいいんだから――」

 彼女は初めて声をあげて泣いた。

 それが僕には、何かを共有している姿のようで嬉しかった。

 涙の理由――僕達はきっと知っていたからなのだろう……今宵が、あまりにも早過ぎる最後の夜なのだと。










「まるちぷる2番街」のArea.2ndさんから、切なく哀しい第4話をいただきました。全五回の連載予定とうかがっておりますので、次回が最終章となります。



嗚呼。



永遠に明けない夜を、閉ざされた黄昏を求めては何故いけないの?



「今日」の

いまこのひとときを

彼女を、

抱きしめていたいだけなのに。



ずっとずっと「今日」のままでいい。

絶望まみれの「明日」なんていらない。






――僕は、

「希望という名の嘘」

が、

憎い。






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