402 Rei Ayanami
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Area.2nd
その間、僕はずっと興奮で喉を震わせていた。彼女の冷たい背中を、冷たい足を、冷たい手のひらを摩りながら、彼女の名前を連呼していた。 しつこく、厭らしいくらいに。 自分にできることがこれぐらいしかない事を知っていたから。 夜が明けるまでずっと暖め続けることに腐心したかった。すると彼女は僕の手を押しとどめ、そして静かな声で耳許に囁いた。 僕は泣いた。 彼女は泣きながら気丈に微笑んでいた。 どうして笑っているの? と聞いたら、もっと嬉しそうに笑うのだった。 夜風の匂いが完全に消滅する頃、部屋は彼女の匂いで充満した。 じーん、と痺れるように痛みを忘れてゆく。どうして最初は痛いなんて思っていたのだろうと、僕は思って、同じように彼女は言った。奇妙な喪失感でくすぐったいくらいに胸の中が一杯になってゆくと、何かが満たされた瞬間がそこにあった。 そっと目を開けると、彼女は先に目を開けて、僕の瞼を見ていた。 上気した頬で健気に微笑んでいたけれど、まだ目の焦点は曖昧のままだった。 彼女は震える手を一生懸命、僕の頬に伸ばして、そっと触れた。 そっと触れた。 僕を氷漬けにしていたなにものもが、全て掻き消えた気がした。 夢のようで、声を嗄らし涙腺を振るわせてきつく彼女を抱きしめた。 すべて、一瞬の出来事で、呆気なかった。 僕達が触れつづけていた、殺伐とした空気。使徒…敵…決戦兵器、殲滅、跳梁、暴走爆発銃撃戦左足切断孤独涙傷痕。今は、重大なことだったような気もするそれぞれが窓を閉じた向こうの情景のように思えた。 今は果たして、どうして些細なことのように思えてしまった。 病気のうつつで見る絵空事のようだった。 歩んできた道程はどれほどのものだっていい。 彼女が三人目であって、二人目の彼女との間に僕がどれだけの時間と接触と代償を積み上げてきていたのだとしても、何時の間にか今はもう構わなくなっていた。 心から愛おしい。 仮面を僕の傍でだけ脱ぎ捨てて甘えてくれる彼女が。 彼女は光の中に見えなくなったあの日の彼女では決してないのかもしれないけれど、僕は、今全てのしがらみに笑って頷けると思う。 もういいんだ。 僕は彼女を愛してる、胸を張って言えると思うから。 きっと。 短く彼女が、 僕の名前に声を枯らして、 涙を雫した音がした。 「アッ…」 こぽこぽ…。 ポットの口から注がれた琥珀色の帯が冷ややかな磁器に受け止められる水音に合わせて、明りのつかない薄暗い部屋の中に白い湯気を迷わせる。窓からの月の光でやっとその存在がわかる。そっと息を吹きかけたら消えてしまいそうな、はかない幻。 まるで、それは、 「紅茶、お砂糖、入れる?」 ベッドに座ってシーツを纏う、彼女に良く似ているような気もした。 彼女は僕の言葉に応え、 「…ええ、欲しい…」 僕は気だるそうな笑みで無言の了承を示した。それっきり、彼女も僕も何も言わず、部屋には夜の静謐があっという間に息を吹き返していっぱいになった。 こぽこぽ…。 何故かやけにカップに注ぎ終わるまでの時間が長く感じられる。暖かい湯気と甘い薫りが鼻に届くと、同時にカップが満たされた。さらさらと匙に砂糖をすくって、琥珀色の水面にそれを振りまいてゆく。波紋が浮かび上がることもなく、それは吸い込まれた瞬間にすう、と熔けて陽炎のように消えていった。 僕は戸棚からもう一つ、お揃いの白磁のカップを出した。 満たされた方と裏腹に、それはひんやり冷たかった。同じように紅茶を注ごうと伸ばした腕をふと止め、僕はキッチンから彼女に目をやった。 彼女はまだ、ついさっきと同じ姿勢で、窓の外を見ていた。 窓から差し込む逆光のせいだろうか、滑らかな床に落とす薄暗い影さえもが神秘的に見えて、僕はふと時間の経過を忘れて、見とれた。清かに揺れ動く細い髪のひとすじひとすじ、傷一つない柔かな肩から首筋への曲線…。 僕の視線に気付いたのだろうか、彼女は僕を振り返って、どうしたの、と問い掛けるような瞳を向けた。決して責めているわけではないのに、何故か僕は慌てて自分の分のカップに少し荒っぽく紅茶を注ぐ。撥ねた雫が冷たかった。 少し逡巡して、僕は自分のカップにも砂糖をふった。 「なんでもないよ」 両手にカップを持ち、小さく微笑みかけて彼女の隣に座る。 僕からカップを受け取り、彼女は暫くのこと、顔にそれを近づけて、湯気の中で目を閉じていた。いつもの彼女の紅茶の飲み方。 「…いい匂い」 うっとりと細めた目で、彼女は言った。 「綾波、紅茶の匂い、好きなんだね…」 僕は彼女の横顔を眺めながら何気なく言った。すると彼女はすこし考えた風に時間を置いて、答えた。 「…でも、私が淹れてもだめなのよ」 僕は怪訝な目で彼女を見た。 「いい匂いするのは碇君の淹れた紅茶だけなの…」 彼女が淹れても同じ香りの紅茶になるだろう。僕が手のなかでカップを持て余していると、彼女は続けた。 「碇君の匂いがする…」 淡々とした口調に、僕はその言葉に照れを見せることも失念していた。 「甘くていい匂い…」 まるで囁くように言葉を続ける。 「そしてとても暖かいの。私を芯から暖めてくれる…」 カーテンが揺れて月の光に影が舞う。月光色に染まった部屋に再び静寂が訪れる。僕のカップからは細い湯気がふわふわと立ち上り、乾燥した肌にそれが触れた瞬間、湿り気とともに訪れた実感に、ワンテンポ遅れて僕は頬を熱くさせるのだった。 彼女は熱い紅茶をふうふう吹いて冷ましながら、紅茶を飲むことに夢中になっているみたいにみえた。 僕もカップを口に運んだ。 いつもは砂糖を入れない僕には、少し甘かった。 でも、今の僕と、この夜には、一番似合っているような気がした。 「うん…暖かいね。僕も、暖かいよ…」 「だって碇君の入れた紅茶だもの」 思わずふっと吹き出し笑う僕に、彼女は微笑んでもう一口紅茶を飲み込んだ。 「ねえ、今度、綾波の入れた紅茶が飲みたい…」 「私は碇君のように上手に入れられないわ」 「いいんだ。綾波が淹れてくれるってだけで…」 彼女は小さく頷いた。 「ええ、わかったわ…」 「約束だよ…?」 僕は彼女の細い肩に身を寄せた。
窓の外は明けやらぬ空。 睡眠時間を犠牲にして、また少し縮まる距離。 神様へのお願いは一つだけ。 僕が生きることじゃなく、 彼女が消えないことじゃなく、
二人でいつまでも一緒にいられますように。
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