401 Unauthorized
ERROR LOG【400】: 2nd.Dividing

Area.2nd


 凍えることもなく、また夜を乗り越えたことに、僕は安堵した。 彼女はか細い寝息をたてながらまだ眠っていた。

 月の光の代わりに、南向きの窓からは深い藍色の空が広がっていた。 まだ陽も昇らない、明け方の時刻であるらしく、甘い匂いに混じって鼻腔をついたのは 朝霧と木々から起つ湿り気の匂いのようだった。そして今朝もまた、雲は流れていなかった。

 僕は彼女を起こさぬように、そっとシーツから這い出、そして彼女の躯を 覆い隠すようにシーツを掛けなおしてやった。

 僕は床に散乱する服を軽く叩き、溜息を吐きながらそれを纏う。 僕の服には僅かばかりか彼女の香りが染み付いているようだった。 シーツの隙間から覗く白い背中を何とはなしに眺めながら、僕はキッチンに立ち尽くした。

 紅茶でも入れようかとも思ったが、こんな時間に起こすこともないだろう… 僕はすることをなくして、壁を背にして床に座り込んだ。 部屋には昨日の夜の匂いが充満していた。彼女の髪の匂いが部屋中に散乱して、 僕はその香りから逃れることは出来そうになかった。

 僕はあまり寝ていないはずだった。

 時計がない部屋と、時計を持たない自分にすっかり時間の感覚はなくて、 携帯電話はもう消耗しきった液晶が虚しくあるだけの錘しだった。 今何時かわかるのは、生きるのに充実した人間の特権なのだろうか、僕はそんなことさえ思ってしまい 苦悩する僕自身に慰めの笑いをあげた。

 「……碇君…?」

 シーツの擦れ合う音とともに、彼女は掠れ声で僕の名を呟いた。 声を聞いた瞬間、僕は思わずはっと駆け寄って、彼女の顔を正面から見ながら、

 「いるよ…綾波…」

 そう言った。綾波は安らいだ微笑を浮かべて、

 「おはよう…」

 やっぱり掠れた声で呟いた。えもいわれぬ充足の代償に上手く出て来れないその声に、 僕は少し熱い自分の肩を手のひらで摩った。


 そろそろ日が傾き始める。

 今日は、とうとう学校へ行かなかった。罪悪感は感じられなかったが、 僕達の境遇を月並みに呪ったりはしてみた。

 「行きましょう」

 綾波は風邪でも引いたのだろう、朝と同じ、掠れ声だった。 熱は、少しあるかもしれない。彼女の白い肌は薄桃色に染まっていた。 僕は彼女の額に自分の額を合わせ、耳元に話しかけた。

 「風邪…引いたみたいだね…。平気?」

 彼女は何時も彼女がそうするように薄く微笑を僕に返した。

 「昨夜(ゆうべ)、服を…着なかって、寝ちゃった…から…」

 僕は少し頬を熱くして、ちょっとだけ慌てた。 彼女も僕のように照れているみたいで、恥ずかしくて少し嬉しい、くすぐったい気分で 僕は額から手のひらを撫ぜあげて、彼女の髪を指で梳いた。

 それは…髪を梳くというこの行為は、僕達の挨拶であり、確認でもあり、 そして秘密の共有という意味を二人で歓喜する儀式でもあった。 彼女は、頭を撫でてもらうのが嬉しいのだと、言った。 それは理由もわからないが、僕にはとても哀しく聞えたのだった。

 「訓練…平気?」

 僕は彼女を優しい力で胸に埋めて、甘える子供にでも聞かせるように囁く。 彼女は、やはり彼女が何時もそうするように哀しい唇で言った。

 「ええ…」

 僕は泣きそうになって、彼女を掻き抱いた。

 「私たちは、もうそうしなければ生きてゆけないのだから…」

 僕は生きたいと思った。彼女と二人だけで誰にも邪魔されない世界で 生きたいと、そして二人だけで死にたいと思った。 でも、僕に、僕達にその権利はなかった。

 「僕なんかには…なにも出来はしないんだね。君の為に…何かしたいのに、 君を抱いて、泣くくらいしか出来ないんだね」

 僕は言った。

 「君の未来を…守ってあげられないかも知れないんだ」

 生きていれば、生きていさえすれば、何処だって天国になる……。 でも、この神なき世界に、どうしたら天国が生まれてくるの? だったら、この地獄で誰からも忘れ去られてしまいたい…。

 彼女はかぶりを振った。

 「未来は、つくるものよ。守るものじゃ、ないわ…」

 嗚咽は声になって溢れた。


 僕達は今夜の訓練に遅れないように、早い時間に…まだ日も暮れやらぬ午後五時、 鍵の壊れた開け放しの玄関を押して、むっとした、ぬるい空気に身体を投じた。 そして手を繋いだまま、三階分の階段を下りる。

 指先を握る彼女の手はすっかり冷えてきてしまっていた。

 「寒い?」

 彼女は鞄を探ろうとした僕の手を押しとめた。

 「ああ…それじゃ、いつでも…寒かったら言ってね」

 心配する僕は彼女の身体を少し引き寄せた。

 その時彼女は少し強く息を吸った。少し視線を下げて彼女は、 僕の手のひらに彼女の五本の指先を絡ませて、その握る力を強くした。 彼女の手のひらに、しっとり僕にまとわる滲む汗があった。

 早めに出て、よかった…。僕はそう思いながら、彼女の手を引いた。

 「寒い…手は、冷たい、けれど…」

 ややあって彼女は控えめに口唇を開いた。やっぱり手袋、つけてあげようか、 僕がそう言おうかとするのより先に、彼女はたどたどしく言葉を紡いだ。

 「手袋…碇君の手のひらを、感じられなくなるから…」

 僕は小さく微笑みを彼女の赤い瞳に向けた。 そして、今もそうであるように、安心した縋りつくような瞳を 柔らかく僕におくり返してくれることが、何より僕は大切にしていた。

 思い上がりかもしれないが、僕は誰よりも、その瞳の色を理解していると思っている。 そして…その赤い色に連綿と救われている。その確信と、自信があった。

 「僕も…綾波の手のひら…柔らかくて……」

 僕は自分で言っている言葉を喋りながら振り返って、途端に これ以上ないほどに顔を真っ赤にしてしまった。あ…柔らかい、だなんて…。 僕は何とはなしに彼女の瞳をちら、と一瞥した。

 彼女の瞳は、続きを言って、と、せがんでいるように見えた。

 それは僕の思い込みだったのかもしれないけれど。僕は、科白の続きを言わないことを 全く許してくれそうにない…微笑でごまかしてしまうことも出来そうにない、 彼女を見ながら、言った。

 彼女の瞳は、揺れながら僕を待っていた…ように、見えた。

 「…好きだよ」

 彼女はいつかの月夜に見せたように、僕に優しい微笑を見せてくれた。

 ああ、やっぱり…このこを愛してよかった…。

 僕は夕日ににじむ眦を彼女から隠すように、橙色の空を見上げて指先でそれを拭った。

 確かに暑く感じられるこの空気は、彼女にとっては寒さとなって 彼女の体温を奪っていた。


 僕は更衣室から訓練時に使用するスーツを持って、シャワールームへと向かった。 昨日の夜の後から、軽く汗を流しただけだったから、髪はかさついて、ひどく 通す手に不快だった。

 脱衣所で服を脱ぐとき、彼女の匂いを感じた。僕は昨晩のことを思い出して、 少し眉を寄せて、目を細めた。

 肌の荒れは一目瞭然だった。

 夜の間に間に瑞々しさを失っていくそれは、僕がはじめてここにきたころの 顔つきからくらべても、違和感は際立っていた。

 鏡には、僕である人の顔が虚白に映っていた。少女のような風貌だと自分でも コンプレックスであった過去のきめ細やかなつくりの顔は、今はかさついた悪い肌色の間に 落ち窪んだ目が病的に光る、ぎらついて野良犬のような風貌であった。

 僕は裸のまま、鏡に歯噛みでぎざぎざの爪を立てた。

 「頭おかしくなりそう…」

 唇を強くかみ締め、鏡の中の自分を睨み、そして立てた爪を寝かせる。 鏡面には僕の指の跡が十本の糸を引き、鏡の中の僕の目元を白く歪ませた。

 こんな姿、彼女に見せたらいけない…。

 「綾波を…不安にさせて、傷つけたら…ダメだ!」

 僕は自分に言い聞かせた。『自分が何のために今生きているのか、考えろ』。 心の中で僕は、わかっているよ、と頷いた。僕がオカしくなるの位、何だというのだ。

 彼女を幸せにしなければ。

 「そうさ…綾波は幸せにならなきゃいけない…なるべきひとなんだ…」

 シャワールームには誰もいなかった。当然か。今職員でこの時間シャワーを浴びるほど 暇な人はいないのだった。僕はすっかり渇いた冷たいタイルを踏みしめながら、真ん中の シャワーの湯を全開にした。

 途端に勢い良く白い湯気が立ち込め僕の身体を包む。急速にあたりの温度が舞い上がって すうっと安心した気分になった。僕は、熱さを我慢して、頭から湯をかぶった。 彼女の痕が流れ去ってゆくのがぼんやりと見えた気がした。

 「ふ…ああっ…」

 流れる熱さに、僕は大きく緊張した身体で、溜息を吐いた。

 手のひらで両の肩を抱きしめて、熱い流れに身を委ねる。

 僕をリセットしてくれるそんな気さえ、してくるのだった。


 『サードはプラグ深度、−3.7で現状維持。ファーストは−1.2で固定』

 僕の意識がうっと混濁する。然し、それをおくびにも出さずに低い声で言う。

 「まだ行けます…」

 発令所にいる人たちが俄かにざわつく。感情の込まらない眼で静観していた女は、 オペレーターに視線で指示する。

 『サードはプラグ深度、加えて−0.1で現状維持』

 僕はかすれきった視界を振り払うように、同じ訓練を受ける彼女を思った。

 「シンジ君…、今日は凄いわね」

 「見た目はね…もう止めた方が良いわ、汚染区域一杯よ」

 今にも失神しそうな圧迫感と嘔吐感が一瞬にして掻き消え、立体的に点灯していた 機械的な照明がかた、と落ちる。僕は肺の中に残った僅かな息を洩らし、昇る泡を眺めた。

 『第102テストは正常に終了。サードはシンクロ51.1%を73秒維持、異常なし。 ファーストはシンクロ39.7%を318秒維持、異常なし。』


 僕は二度目の熱いシャワーで身体を流しながら思う。

 また今日も一日が終れる、と。

 あとは眠るだけの夜が来る。

 美しい宵闇のむらさきが辺りを染める。

 何も考えずに居られる。

 眉間を指先で押さえて、目の疲れを癒す。

 白い湯気の中にいると、まるで夢の中にいるかのようだ。


 自動販売機の灯りだけが辺りを白くしていた。休憩室の時計を見ると、 もう十時を回る頃であった。僕は暖かいけれどただそれだけの紅茶を冷ましながら飲んだ。

 「碇君…」

 こつこつ、という音が、仄暗い廊下の向こうから聴こえて、僕は目を遣った。

 「綾波」

 彼女は僕の隣りに、それが自然というようにぴったり身体を寄せて座った。 彼女からは、薄っすらと石鹸の匂いがした。生乾きの湿った髪の冷たい感触が アンバランスな艶やかさを醸し出していたようだった。

 「綾波、ちゃんと乾かさないと…ただでさえ、風邪っぽいのに…」

 「平気…碇君、それ、紅茶?」

 彼女は訊いた。僕は言った。

 「うん、飲む?」

 「ええ…」

 彼女はおずおずと僕の手から、まだ暖かい紅茶の缶を受け取った。 控えめな仕種で紅茶を飲む彼女を、僕は黙って見つめていた。

 「暖かい?」

 「ええ…でも」

 彼女は僕の顔に視線を向けて、少し上気した頬のまま僕に言う。

 「碇君が入れてくれた紅茶の方が、ずっと美味しい」

 僕は言った。

 「…コインを一枚入れれば、暖かさだけは手に入るんだよ」

 彼女の口許から希薄な湯気が立ち上るのを眺めながら、僕は言った。彼女は僕に 紅茶の缶を返して、言った。

 「碇君…今日、変みたい」

 僕は照れ臭そうに、僕を見透かしてくれる彼女から視線を離して、 小さく笑った。それは沈黙を生み出すのに充分だった。 彼女の指は僕の指を捉えて放さなかった。その指は暖かかった。 先程まで、熱い缶を握り締めていた所為か、とても暖かかった。

 「変じゃないよ…」

 僕はしっとりと濡れた前髪を掻き分けて、白く肌質の細かい額にキスをした。 彼女はほんの少しだけ、細かく震えて僕の手を強く握った。 少しだけ彼女の洩らした、ちいさな喘声が、誰もいない廊下に反射して響いた。 それはひどく刺激的な情景だった。

 離れた唇を追いかけるように彼女の頭は僕の肩に寄りかかる。 それは次第に僕達の熱を上げるいつもの階段なのだった。

 「…碇君」

 「何? 綾波…」

 「紅茶…入れて欲しい」

 「うん、いいよ…」

 少し残った紅茶を捨てる音がして、やがて足音も遠くに消えた。

 











「まるちぷる2番街」のArea.2ndさんから早くも第二話をいただきました。

淡い黄昏の中で運命を踊る――逃げることを許されないオルゴールのバレエ人形のように。
少しずつ、少しずつ、ぶれておぼつかなくなる足許。

だけど――まだ、倒れる訳には、行かない。


そう、誰よりも何よりも大切な彼女のために・・・。



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